、不思議な快さを感じた。娘は遊びに気をとられて、身をもがいた。クリストフは少しからかってやった。手に噛《か》みつかれた。それで地面に降ろしてやった。ザビーネは笑っていた。二人は子供を見ながら、なんでもない言葉をかわした。それからクリストフは、話の糸口を結ぼうと――(そうしなければならないと思って)――つとめた。しかし言葉の種が豊富でなかった。それにザビーネは、その仕事を少しもやさしくしてくれなかった。彼女は彼が言うことをただくり返すだけで満足した。
「いい晩ですね。」
「ええ、ほんとにいい晩ですわ。」
「中庭では息もつけません。」
「ええ、中庭は息苦しゅうございますね。」
 話は困難になってきた。ザビーネは娘を連れもどす時刻なのをよい機会にして、娘といっしょに家にはいった。そしてもう出て来なかった。
 クリストフは、彼女がその後毎晩同じようにして、ルイザが来ない間は二人きりになるのを避けはすまいかと気づかった。しかしそれは反対だった。翌日は、ザビーネが話を始めようとした。彼女は気が向いてるからというよりもむしろつとめてそうした。話の種を見つけるのにたいそう骨折ってることが、言い出した問いに自分でも困ってることが、よく感じられた。問いと答えとが、苛立《いらだ》たしい沈黙の間にぽつりぽつりと落ちた。クリストフはオットーと二人きりの初めのころのことを思い出した。しかしザビーネに対しては、話題の範囲はさらに狭かった。それに彼女はオットーほどの気長さをもたなかった。つとめてもあまりうまくゆかないことを見てとると、もうつづけて気を入れなかった。あまりに骨を折らなければならなかったので、もう面白くなくなった。彼女は口をつぐんだ。そして彼もそれに倣《なら》った。
 間もなく、すべてはきわめて穏かになった。夜はまた静かになり、二人の心はまた考えにふけった。ザビーネは夢想しながら、椅子《いす》の上にゆるやかに身を揺すっていた。クリストフはそのそばで夢想していた。二人はたがいに何にも言わなかった。三十分もたつと、ある苺《いちご》車の上から生暖かい風が吹き送ってくる酔わすような匂いに、クリストフはうっとりとなって、小声に独語《ひとりごと》を言った。ザビーネはそれに二、三言答えた。それから二人はまた黙った。そのなんとも言えない沈黙とその無関心な数言との魅力を味わった。二人は同じ夢想にふけり、ただ一つの考えでいっぱいになっていた。彼らはそれがどういう考えであるか少しも知らず、みずからそれをはっきりさせなかった。十一時が鳴ると、微笑《ほほえ》みながら別れた。
 次の日には、二人はもう話を交えようとも試みなかった。親しい沈黙を事とした。時々二、三の片言を口にすると、二人とも同じことを考えてるのがわかった。
 ザビーネは笑いだした。
「むりに話さない方がどんなにかよござんすね!」と彼女は言った。「話さなければならないと思うと、厭《いや》になってしまいますわ!」
「ええ、世間の者が皆、」とクリストフはしんみりした調子で言った、「あなたと同じ意見だったら!」
 二人とも笑った。彼らはフォーゲル夫人のことを考えていた。
「かわいそうな人ね、」とザビーネは言った、「ほんとに飽き飽きしますわ。」
「自分ではちっとも倦きないんですからね。」とクリストフは悲しい様子で言った。
 ザビーネはその様子と言葉とを面白がった。
「あなたには面白いんでしょう。」と彼は言った。「あなたは楽ですよ、隠れておられるから。」
「そうですわね。」とザビーネは言った。「私は室にはいって鍵《かぎ》をかっておきますのよ。」
 彼女はほとんど沈黙にも等しいかすかなやさしい笑いをもらしていた。クリストフは夜の静寂の中に、恍惚《こうこつ》として耳を傾けていた。彼はさわやかな空気を心地よく吸い込んだ。
「ああ、黙ってるのはほんとにいいことだ!」と彼は身体を伸ばしながら言った。
「そしてしゃべるのはほんとに無駄《むだ》なことですわ!」と彼女は言った。
「そうです、」とクリストフは言った、「おたがいによくわかり合えるんだから。」
 二人はまた沈黙に陥った。暗いのでたがいに顔を見ることはできなかった。二人とも微笑《ほほえ》んでいた。
 けれども、いっしょにいると同じことを感じていたとはいえ――もしくはそうみずから想像していたとはいえ――二人はたがいに相手のことを少しも知ってはいなかった。ザビーネはそれを別に気にかけてはいなかった。クリストフはそれほど無関心ではなかった。ある晩、彼は彼女に尋ねた。
「あなたは音楽が好きですか。」
「いいえ。」と彼女は事もなげに答えた。「退屈しますの。私にはちっともわかりません。」
 その淡泊さが彼の心を喜ばした。音楽が大好きだと言いながら音楽を聞くと退屈の色を示す人々の虚偽に、彼は
前へ 次へ
全74ページ中28ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング