したような様子で、足を軽く組み、両手を膝《ひざ》の上に平たく重ねていた。前方をまっすぐに向いて、何にも耳にしていないらしかった。ルイザはうとうとしていた。そして家にはいった。クリストフはも少し残っていたいと言った。
 もう十時になりかけていた。通りはひっそりしていた。しまいまで残っていた近所の人たちも、順々に家へはいっていった。店の戸の閉《しま》る音が聞えた。燈火のさしていたガラス戸がまたたいて見えなくなっていった。まだ一つ二つ残っていたが、それもすぐに暗くなった。しいんとした。……彼らは二人きりだった。たがいに顔を見合わしもせず、息を凝らして、おたがいにそばにいるのも知らないような様子だった。遠い野から、草の刈られた牧場の香《かお》りが漂ってき、隣の露台《バルコニー》から、一|鉢《はち》の丁字の花の匂《にお》いがしてきた。空気はよどんでいた。天の川が流れていた。一本の煙筒の真上に、北斗星が傾いていた。青白い空に星が菊のように花を開いていた。教区の会堂で十一時が鳴ると、その響きに合わして、他の会堂で澄んだ響きや錆《さ》びた響きがくり返され、また家の中で、掛時計の重い音や鳴時計の嗄《しゃが》れた声がくり返された。
 二人は夢想から覚《さ》めて、同時に立上った。そして家にはいりかける時、二人ともそれぞれ、無言のまま頭で会釈をした。クリストフは室にもどった。蝋燭《ろうそく》をともし、テーブルの前にすわり、両手で頭をかかえ、何にも考えもせずに長い間じっとしていた。それから溜息《ためいき》をついて、寝床にはいった。
 翌日、彼は起き上ると、機械的に窓へ近寄って、ザビーネの室の方をながめた。しかし窓掛は降りていた。午前中降りていた。その後はいつも降りていた。

 翌晩クリストフは、また家の前へ出ようと母に言い出した。それが習慣になった。ルイザは喜んだ。彼が夕食を済ますとすぐに、窓を閉め雨戸を閉めて室に閉じこもってしまうのを見ると、彼女は心配になるのであった。――小さな無言の人影もまた、いつもの場所にすわりに来ることを欠かさなかった。彼らはルイザの気づかぬまに素早く頭で会釈をかわした。クリストフは母と話をした。ザビーネは往来で遊んでる自分の娘に微笑《ほほえ》みかけていた。九時ごろに彼女は娘を寝かしに行き、それからまた音もなくもどってきた。彼女が少し手間どると、クリストフは彼女がもうもどって来ないのではないかと気をもみ始めた。家の中の物音や、眠ろうとしない小娘の笑声などを、彼は窺《うかが》った。ザビーネが店の入口に現われない前から、その衣《きぬ》ずれの音を聞き分けた。彼女が出て来ると、彼は眼をそらして、いっそう元気な声で母に話しかけた。時とすると、ザビーネからながめられてる気がした。彼の方でもまたそっと流し目に見やった。しかしかつて二人の眼は出会わなかった。
 子供が仲介の役を勤めた。彼女は他の子供らとともに往来を走り回った。足の間に顔をつき込んで眠ってるおとなしい犬を、皆でからかっては面白がっていた。犬は赤い眼を少し開いて、しまいには気を悪くしたらしい唸《うな》り声を発した。すると子供らは、怖《こわ》さと面白さとに声をたてながら四方へ逃げ散った。娘は金切声を出して、あたかも追っかけられてるように後ろを見い見い、やさしく笑っていたルイザの膝《ひざ》へ駆け寄ってすがりついた。ルイザは娘を引止めて種々尋ねだした。それからザビーネとの間に話が始った。クリストフは少しも口を出さなかった。彼はザビーネに話しかけなかった。ザビーネも彼に話しかけなかった。暗黙の習慣から、二人はたがいに知らないふうをした。しかし彼は自分を通りこしてかわされてる話の一語をも聞きもらさなかった。ルイザには彼のその無言が反感を含んでるもののように思われた。ザビーネの方はそうは判断しなかった。しかし彼女は彼に気がひけて、多少返辞にまごついた。すると家の中へはいる口実を見つけるのであった。
 一週間の間、ルイザは風邪《かぜ》をひいて室にこもった。クリストフとザビーネとは二人きりだった。最初の晩は、二人とも恐《こわ》がっていた。ザビーネはてれ隠しに、娘を膝に抱き上げて、やたらに接吻《せっぷん》しつづけた。クリストフは困って、向うの様子を知らないふうをつづけたものかどうか迷った。変なぐあいになってきた。二人はまだ言葉をかわしたことはなかったが、ルイザのおかげですっかり知り合いになっていた。彼は一、二の文句を喉《のど》から出そうとした。しかしその声は中途でつかえてしまった。すると娘が、こんどもまた二人を当惑から救ってくれた。娘は隠れん坊をしながら、クリストフの椅子《いす》のまわりを回った。クリストフはその途中をとらえて、抱いてやった。彼は元来あまり子供好きでなかったが、その娘を抱きしめると
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