むすこ》が家庭から逃げ出してしまった今となっては、も一人の息子も彼女の手を離れ得るらしい今となっては、働く勇気をすべて失ってしまっていた。疲れはててぼんやりし、意力も鈍りきっていた。働きづめの人々が、生活の峠を越して、不意の打撃から働く理由をすべて奪われてしまうと、往々神経衰弱の危機に襲われるものであるが、彼女もそういう危機にさしかかっていた。彼女はもはやあらゆる元気を失っていて、編みかけの靴下を仕上げることもできず、かき回した引き出しを片付けることもできず、窓を閉《し》めに立上ることもできないほどだった。じっとすわり込んで、ぼんやりし、がっかりしていた――ただ思い出にふけるばかりで。彼女は自分の衰頽《すいたい》に気づいていた。それを恥じていた。そして息子《むすこ》にそれを隠そうとつとめた。クリストフは利己的に自分の苦しみにばかり没頭して、何にも気づかなかった。もちろん彼は、そのころ母が口をきくにも、ちょっとしたことをするにも、非常にぐずぐずしているのにたいして、ひそかにじれてはいた。しかし、母のいつもの活発な様子がいかに変っていたにせよ、それを気にかけてはいなかった。
 がその日、彼は母のところへふいにやって行って、母の様子に初めて驚いた。彼女は襤褸《ぼろ》を床《ゆか》に取り散らし、足下に積み、両手にいっぱい握り、膝《ひざ》の上に広げて、その中にじっとしていた。首をさし出し、頭を前に傾け、硬《こわ》ばった顔をしていた。彼がはいって来る足音を聞いて、ぞっと身を震わした。その白い頬《ほお》に一|抹《まつ》の赤味が上った。本能的な動作で、もってる品物を隠そうとした。そして当惑したような微笑を浮かべてつぶやいた。
「こんなに、片付け物を……。」
 過去の遺物のうちにつなぎ止められてるその憐《あわ》れな魂を、彼は痛切に感じた。そして惻隠《そくいん》の情に打たれた。けれども多少とがめるような荒い口調で、ぼんやりしてる彼女を呼びさまそうとした。
「さあ、お母《かあ》さん、こんな閉め切った室の中で、この埃《ほこり》の中にじっとしてちゃいけません。身体に毒です。元気を出して、すぐ片付けてしまわなけりゃいけません。」
「そうだね。」と彼女はおとなしく言った。
 彼女は引き出しに品物をしまうため立上ろうとした。しかしすぐに、がっかりしたようにもってた物を取り落として、またすわり込んでし
前へ 次へ
全148ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング