ったがついに決心して、もっと質素な安い住居を捜そうとした。
二人は小さな住居を見出した――市場通りのある家の三階で、二、三の室があった。そのあたりは騒々しく、町のまん中になっていて、河や樹木や、あらゆる親しい場所から、だいぶ隔っていた。しかし感情よりも理性に従わなければならなかった。そしてクリストフは、苦しみたいという悲痛な欲求を満たすのにいい機会を得た。そのうえ、家主《いえぬし》のオイレル老書記は、祖父の友人で、クリストフ一家の者を知っていた。ルイザは、がらんとした家の中にしょんぼりしていて、自分の愛した人々のことを覚えていてくれる者をたまらなく懐《なつか》しがっていたので、右の一事ですぐそこに住もうと心をきめた。
二人は引越しの仕度《したく》をした。永久に去ろうとする悲しいまた懐しい家庭で過す最後の日々の苦《にが》い憂愁を、彼らはしみじみと味わった。心の悲しみを言いかわすこともほとんどできかねた。それを口に出すことが、恥ずかしかったしまた恐ろしかった。どちらも、心弱さを見せてはいけないと考えていた。雨戸を半ば閉めた侘《わび》しい室で、ただ二人で食卓につきながら、高い声をするのも憚《はばか》り、急いで食事をし、顔を見合わすことも避けて、心痛の情を隠そうとばかりしていた。食事が済むとすぐ別々になった。クリストフはまた仕事に出かけていった。しかしちょっとでも隙《ひま》があると、家にもどって来て、ひそかにはいってゆき、自分の室か屋根裏かに、爪先《つまさき》立って上っていった。そして扉《とびら》を閉め、古い鞄《かばん》の上や窓縁の上など、片隅《かたすみ》にすわって、そのままじっと何にも考えないで、少しの足音にも震えるような古い家のそれともない物音に、心を浸すのであった。彼の心もその家のように震えていた。家の内外の空気の流れ、床板の軋《きし》り、聞きなれたかすかな物音、それらを気懸《きがか》りそうに窺《うかが》った。どれにも皆聞き覚えがあった。彼はぼんやり意識を忘れて、頭には過去の面影が立ち乱れていた。サン・マルタン会堂の大時計の音が聞えると、惘然《ぼうぜん》としていたのから我れに返って、また出かける時間であることを思い出すのだった。
階下《した》には、ルイザの足音が静かに行ったり来たりしていた。幾時間もその足音の聞えないことがあった。彼女は何の物音もたてなかった。ク
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