ジャン・クリストフ
JEAN CHRISTOPHE
第三巻 青年
ロマン・ローラン Romain Rolland
豊島与志雄訳
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)囁《ささや》き
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)女|弟子《でし》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]
−−
一 オイレル家
家は沈黙のうちに沈んでいた。父の死去以来すべてが死んでるかと思われた。メルキオルの騒々しい声が消えてしまった今では、朝から晩まで聞こえるものはただ、河の退屈な囁《ささや》きばかりであった。
クリストフは執拗《しつよう》に仕事のうちに没頭していた。幸福になろうとしたことをみずから罰しながら、黙然として憤っていた。哀悼の言葉にもやさしい言葉にも返辞をしないで、傲然《ごうぜん》と構え込んでいた。日々の業務に専心し、冷やかな注意で稽古《けいこ》を授けた。彼の不幸を知ってる女|弟子《でし》たちは、彼の平然さに気を悪くした。けれども苦しみを多少経験したことのある年上の人たちは、そういう外見上の冷淡さが、少年においてはいかなる苦悶《くもん》を隠してることがあるかを、よく知っていた。そして彼を憐《あわ》れんだ。しかし彼は彼らの同情をありがたいとも思わなかった。また音楽さえも、彼になんらの慰謝をも与えなかった。別に喜びの情をも感じないで、義務のようにして音楽をひいていた。あたかも彼は、もはや何事にも興味をもたないことに、もしくはそう思い込むことに、生存の理由をすべて失うことに、それでもなお生存することに、ある残忍な喜びを見出してるかのようだった。
二人の弟は、喪中の家の沈黙に慴《おび》えて、急に外へ逃げ出してしまった。ロドルフはテオドル伯父《おじ》の商館にはいって、伯父の家に住んだ。エルンストの方は、二、三の職についてみた後、マインツとケルンとの間を往復してるライン河の船に乗り込んで、金のほしい時ばかりしか顔を見せなかった。それでクリストフは母と二人きりで、広すぎる家に残ることになった。そして収入の道もわずかだったし、父の死後にわかった若干の負債をも払わなければならなかったので、つらくはあ
次へ
全148ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング