せん》なことを述べたてた。クリストフはたけりたつまいと一生懸命に我慢した。がついに悪口の意味がわかると、かっと逆《のぼ》せてしまった。椅子《いす》から飛び上がった。エルンストは声をたてる隙《ひま》もなかった。クリストフは彼の上に飛びかかり、室のまんなかで彼と組打をし、床《ゆか》に彼の頭をたたきつけた。被害者の恐ろしい叫び声をきいて、ルイザも、メルキオルも、家じゅうの者が駆けつけて来た。ひどい目に会ってるエルンストを、皆で助け出した。クリストフは放そうとしなかった。放させるには殴りつけなければならなかった。皆は彼を野獣だと呼んだ。彼は実際野獣のような様子をしていた。眼をむき出し、歯ぎしりをし、ふたたびエルンストに飛びかかろうとばかり考えていた。どうしたのかと尋ねられると、彼の狂暴はますますつのった。エルンストを殺してやると怒鳴った。エルンストも訳を話すことを拒んだ。
クリストフは食べることも眠ることもできなかった。彼は寝床の中で震え泣いた。彼が苦しんでるのは、ただオットーのためばかりではなかった。彼のうちに一つの革命が起こっていた。エルンストには、兄に与えた苦悶《くもん》がどんなものであるか、ほとんど思いもつかなかった。クリストフはまったく清教徒《ピューリタン》的な一徹の心をそなえていた。その心は人生の汚辱を許すことができなかったし、それをしだいに見出してゆくごとに恐怖していた。十五歳になりながら、自由な生活をし強い本能をもっていたにもかかわらず、彼はまだ不思議なほど無邪気だった。生来の純潔さと休みなき勤労とのために、庇護《ひご》されていた。ところが弟の言葉は、彼に深淵を開いてみせた。彼は自分の身にそういう醜汚をかつて想像だもしなかった。そして今、その観念が心のうちにはいってくると、愛し愛される喜びがすべて害されてしまった。オットーにたいする自分の友情ばかりでなく、あらゆる友情が毒されてしまった。
さらにひどいことには、ある厭味なあてつけの言葉を聞いてからは、自分がこの小さな町の不健全な好奇心の的になってると、おそらく誤解ではあったろうが、彼は思い込んでしまった。とくに、それからしばらくたって、オットーとの散歩についてメルキオルから注意を受けた。おそらくメルキオルは、悪意に解釈していたのではなかったろう。しかしクリストフは、前からのことが頭にあったので、いかなる言葉のうちにも疑念がこめられてるのを認めた。そしてほとんど自分が悪いとさえ考えていた。オットーも、同時に、同じような危機を通っていた。
彼らはなお、人知れず逢っていた。しかし以前のような打ち解けた談話をすることはもうできなくなった。彼らの隔てない間柄は変わってしまった。二人の少年は、きわめてはばかりがちな愛情で愛し合っていたので、かつて親しい接吻《せっぷん》を交わしたこともなく、たがいに会ったり夢想をわかち合ったりすることを、無上の幸福だと思っていたのであるが、今や不正直な人々の邪推によって身を汚されるのを感じた。そして最も潔白な行動のうちにも、眼付や握手のうちにも、罪悪を見出すようになった。彼らは顔を赤らめ、よからぬ考えをいだいた。彼らの関係はたえがたいものとなった。
あらわにそれと言わずに、彼らはしだいに会うことが少なくなった。彼らはつとめて手紙を書いた。しかし言葉の使い方に用心した。手紙は冷やかな無味なものになった。彼らはがっかりした。クリストフは仕事を口実にし、オットーは多忙を口実にして、音信をやめた。間もなく、オットーは大学にはいるために出発した。数か月間二人の生活を輝かした友情は、まったく暗闇《くらやみ》になった。
そしてまた、この愛情が先触《さきぶれ》にすぎなかったも一つの新しい愛は、クリストフの心を奪い、そこにあるあらゆる他の光を薄らがせてしまった。
[#改ページ]
三 ミンナ
それらのことから四五か月前に、枢密顧問官シュテファン・フォン・ケリッヒの未亡人となって間もないヨゼファ・フォン・ケリッヒ夫人は、亡夫の職務のため今までとどまっていたベルリンを去って、生まれ故郷であるライン河畔の小さな町に、娘とともに移り住んだ。彼女は町に、古い伝来の家をもっていたが、その家についてる大きな庭は、ほとんど公園かと思われるほどで、丘に沿って低くなってゆき、クリストフの家から遠くないところで、ライン河まで達していた。クリストフが家の屋根裏の室から眺めると、壁の外に垂れてる重々しい木の枝や、苔生《こけむ》した瓦《かわら》屋根の真赤な高い頂などが見えた。ほとんど人通りもない小さな坂道が、庭の右に沿って通じていた。そこの標石の上によじ上ると、壁越しに覗《のぞ》き込まれた。クリストフもそれをやってみないではおかなかった。覗いてみると、草の生《は》え込んだ径《みち》や、荒れた牧場のような芝生《しばふ》や、乱雑にこんがらかってる木立や、いつも雨戸が閉《し》め切ってある家の白い正面などが、見られた。年に一、二回、植木屋が見回りに来て、家に風を通した。しかしその後で庭はまた自然のままになって、すべてが静寂にとざされるのであった。
その静寂にクリストフは心打たれた。彼はしばしばその眺め場所に人知れず上った。大きくなるにしたがって、眼が、次には鼻が、次には口が、壁の頂までとどくようになった。今では、爪先《つまきき》で伸び上がると、両腕を壁越しに差出すことができた。そういう姿勢は楽ではなかったが、彼は長くそのままの姿で、壁に頤《あご》をのせ、じっと眺めまた聴《き》いていた。夕《ゆうべ》の光は芝生《しばふ》の上に穏かな金色の波を注ぎかけ、その波は樅《もみ》の木立の影では、青みがかった反映に輝いていた。彼は街路をやって来る人の足音が聞えるまで、われを忘れてそこにぼんやりしていた。夜分には、庭のまわりに種々な香《かお》りが漂っていた、春はリラの香り、夏はアカシアの香り、秋には枯葉の香りが。クリストフは晩に宮邸から帰ってくる時、どんなに疲れていても、かならずその門のそばに立ち止まって、その快い空気を吸った。そして息臭い自分の室にもどるのが厭になった。彼はまた幾度も、ケリッヒ家の表門の前の、舗石に草のはえてる小さな広場で、遊んだ――遊ぶ時には――ことがあった。門の左右には、マロニエの老樹が一本ずつ立っていた。祖父もその根本にやって来て、パイプを吹かしながらすわった。そして子供たちには、木の実が弾丸や玩具《おもちゃ》となった。
ある朝、彼はその路次を通りかかって、いつものとおり標石によじ上った。ぼんやり眺めた。そしてまた降りようとした時、何か事変わった感じを受けた。彼は家の方へ眼を向けた。窓は皆開かれていた。日の光が家の中までさし込んでいた。人の姿は見えなかったが、その古い住宅は十五年間の眠りから覚《さ》めて微笑《ほほえ》んでるように思われた。クリストフは変な気持になりながら家に帰った。
食事の時に父は、近所の噂《うわさ》の種となってることを話した。驚くほどたくさんの荷物をもって、ケリッヒ夫人と娘とがやって来た、ということだった。あのマロニエのあたりは、馬車の荷降ろしを見に来た好奇者《ものずき》でいっぱいだったそうである。クリストフの限られた狭い生活のうちにあっては、その話は重大な出来事だったので、彼はそれがたいへん気にかかった。そして仕事に出かけながらも、父の例のおおげさな話に従って、その不思議な家の主人公たちを想像してみようとした。それから仕事に心を奪われて、すっかり忘れてしまった。けれどもその夕方、家にもどる間ぎわに、すべてのことがまた頭に浮かんだ。すると好奇心に駆られて、例の眺め場所に上り、壁の中がどういうふうになってるか覗《のぞ》いてみた。ところが眼にはいるものはただ、静かな庭|径《みち》ばかりで、そこにはじっと動かない木立が、太陽の名残の光のうちに眠ってるがようだった。しばらくすると彼は、好奇心の的をすっかり忘れてしまって、しみじみとした静けさのうちに浸っていった。その妙な位置は――標石の頂上に不安定に身を保って立つのであるが――彼の夢想には上乗の場所であった。空気のよく通わない薄暗いきたない路次から出ると、その日向《ひなた》の庭は夢幻的な輝きを帯びてるようだった。彼の精神はそのなごやかな場所のうちに漂っていった。種々の音楽が歌っていた。彼はその音楽のうちにうとうととした……。
かくて彼は、眼も口も開きながら夢想していた。そしてどれくらいの間夢想してたかみずから知らなかった。なぜなら、何にも眼にはいらなかったから。と突然、彼は駭然《がいぜん》とした。前方に、径《みち》の曲り角のところに、二人の女が立って、こちらを眺めていた。一人は――黒服の若い婦人で、ほっそりとした不揃《ふぞろ》いな顔立をし、灰色がかった金髪をもち、背が高く、優美で、取り澄さない自然の首つきをしていたが――親切そうな揶揄《やゆ》的な眼で彼を見守っていた。も一人の方は――十五歳ばかりの娘で、同じく喪服ずくめであったが――放笑《ふきだ》したくてたまらながってるような子供らしい顔付をしていた。ふり返りもしないでただ黙ってるようにと合図をしてる母親の少し後ろの方で、両手のうちに口を隠して、笑いを押えるのに一生懸命骨折ってるがようだった。色白な桃色の丸い顔をした小娘だった。心持ち太い小さな鼻、心持太い小さな口、ふっくらした小さな頤《あご》、細やかな眉毛《まゆげ》、清らかな眼、豊かな金髪。その髪は網代《あじろ》に編まれて、頭のまわりにくるりと巻きつけられ、丸い首筋と艶《つや》のいい白い額とを現わしていた。――クラナハの絵にあるようなかわいらしい顔だった。
クリストフはその出現にびっくりした。逃げ出すこともできずに、その場に釘付けになった。そして若い婦人が、そのやさしい揶揄《からか》うような微笑を浮べながら、二三歩進んでくるのを見た時、彼は初めて身を動かして、壁土をいっしょにはね落しながら、標石から飛び――転げ落ちた。「坊ちゃん」となれなれしく呼びかける親切な声と、小鳥の声のように晴々した澄みきった子供らしい笑い声とが、耳に聞えた。彼は四つ這《ば》いになって路次の中に身を潜めた。そして間もなく狼狽《ろうばい》の情が和らぐと、あたかもだれかに追っかけられるのを恐がったかのように、足に任して逃げ出した。彼は恥ずかしかった。その恥ずかしさは、家に帰って自分の室で一人になると、また激しく彼を襲ってきた。それ以来彼は、だれかに待伏せされてはすまいかという妙な恐れを感じて、もうその路次が通れなくなった。その家のそばを通らなければならない時には、壁に身を寄せ、頭を下げ、ふり向きもしないでほとんど駆けぬけた。それと同時に、あのやさしい二つの顔のことを考えやめなかった。足音を聞かれないように靴をぬいで、屋根裏の室に上っていった。そして種々くふうをしてはその軒窓から、ケリッヒ家の家と庭との方を眺めた。そのくせ彼は、木立の梢《こずえ》と屋根の煙筒しか見えないことをよく知っていた。
それから一か月後に彼は、宮廷音楽団が毎週催す定期演奏会で自作のピアノ協奏曲《コンセルト》を一つひいた。その曲の終楽章の中ほどまでひいた時、彼は偶然、前面の桟敷《さじき》に、自分の方を眺めてるケリッヒ夫人と娘とを認めた。あまりに意外だったので、茫然《ぼうぜん》としてしまって、管弦楽に調子を合わせることさえ忘れかけた。協奏曲《コンセルト》の終りまで機械的にひきつづけた。演奏が終ると、彼はその方を見まいとはしていたが、ケリッヒ夫人と令嬢とが見てくれと言わんばかりにややおおげさに拍手してるのが、眼にはいった。彼は急いで舞台を離れた。劇場から出ようとする時、廊下で、立並んでる人々に隔てられて、自分が通るのを待ち受けてるらしいケリッヒ夫人の姿を、彼は認めた。彼は夫人を見ないわけにはいかなかった。けれども目につかないふうを装った。そして後に引返しながら劇場の通用門からあわてて出て行った。その後で、彼はそれをみずからとがめた。なぜなら、ケリッヒ
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