て、自分の方がすぐれてると信じていた。クリストフの方では、オットーが少しの反抗もしないで自分の酷遇を受けるのに、不満を覚えていた。
 彼らはもはや初めのころのような眼ではたがいに眺めなかった。二人のたがいの欠点が明るみにもち出されていた。オットーはクリストフの独立|不覊《ふき》を以前ほど面白く思わなかった。クリストフは散歩中厄介な道連れだった。彼は少しも世間体《せけんてい》をはばからなかった。勝手な真似《まね》をして、上着をぬぎ、胴衣の胸をはだけ、襟《えり》を半ば開き、シャツの袖をまくり、杖の先に帽子をつっかけ、身体を風にさらした。歩きながら腕を打ち振り、口笛を吹き、大声に歌った。真赤な顔をし、汗を流し、埃《ほこり》にまみれていた。市場もどりの百姓のような様子だった。貴族的なオットーは、彼と連立ってるところを人に見られるのが、たまらなく恥ずかしかった。街道をやってくる馬車を見かけると、十歩ばかり彼の後におくれるようにして、一人で散歩してるふうを装った。
 帰りに、料理屋か汽車の中などで、クリストフが話を始める時にも、オットーはやはり当惑するのだった。クリストフは騒々《そうぞう》しく話しだし、頭に浮かぶことはなんでも言ってのけ、オットーを厭になるほどなれなれしく取扱った。だれでも知ってる名高い人々について、あるいは少ししか離れていない向うにすわってる人々の風采《ふうさい》についてさえ、最も好意を欠いた意見を高言し、または自分の健康や家庭生活のごく内密な詳細にまで、話を進めていった。オットーがいくら眼配せをしたり、まごついた合図をしたりしても、甲斐《かい》がなかった。クリストフはそれに気づく様子もなく、一人でいるのと同じように、少しも遠慮をしなかった。オットーは近くの人々が顔に微笑を浮べてるのを見てとった。穴にでもはいりたいような気がした。彼はクリストフを粗野な男だと考えた。どうしてクリストフに心を奪われたのかみずからわからなかった。
 最もひどいことは、クリストフが、あらゆる生籬《いけがき》や柵《さく》や塀や壁や通行止や罰金制札や各種の禁示《フェルボート》など――すべて彼の自由を制限せんとし、彼の自由に対抗して神聖なる所有権を保証せんとするもの、そういう何物にたいしても、やはり同じようにはばかりなく振舞うことだった。オットーはたえずびくびくしていた。いくら注意しても役にたたなかった。クリストフはますます悪いことをしては威張ってた。
 ある日クリストフは、オットーを後ろに従えて、ガラス瓶の破片を植えた壁をも乗り越して、あるいはそんな壁があるのでなおそうしたのかもしれないが、私有林の中にはいり込んだ。そしてわが家のように勝手に歩き回ってると、番人とばったり出会った。番人は二人をののしりちらし、訴えるぞと言ってしばらくおどかした後、最もひどい取扱いで外に追い出してしまった。オットーはその憂目に会ってる間しょげきっていた。すでに牢屋《ろうや》にはいってるような心地がし、涙ぐみながら、自分はただうっかりはいり込んだのであって、どこへ行くかも知らずにクリストフの後について来たばかりだと、愚痴っぽく言いたてていた。そしてついに助かったのを知ると、面白がるどころか、同伴者に向かって苦々《にがにが》しい非難を向けた。クリストフが自分を陥れたのだと不平を並べた。クリストフはそれをにらみつけて、「卑怯《ひきょう》者」と呼んだ。彼らは激しい言葉を言い合った。オットーはもし一人で帰れたらクリストフと別れてしまったかもしれない。しかしクリストフの後について行かなければならなかった。それでも二人とも、いっしょに連立ってることを知らないふりをしていた。
 雷雨になりかけていた。彼らは怒っていたので、雷雨の来るのが眼にはいらなかった。焼けるような野原は蟲の声に騒々《そうぞう》しかった。と突然、すべてがひっそりとなった。彼らは数分たってからようやくその静寂に気づいた。鳴動が聞こえていた。彼らは見上げた。空はものすごかった。重々しい鉛色の大きな雲がいっぱいになっていた。雲は騎兵が駆けるようにして四方から集まっていた。ある深淵《しんえん》に吸い込まれるかのように、眼の見えない一点に向かって駆け寄ってるかと思われた。オットーは気をもんだが、あえてクリストフにその心配をうち明けなかった。クリストフは何にも気づかないふうをして、意地悪く面白がっていた。それでも二人は、無言のままたがいに近寄っていた。野の中には他にだれもいなかった。そよとの風もなかった。ただ熱っぽい戦《そよ》ぎが、樹々《きぎ》の小さな葉を時々震わすばかりだった。するとにわかに一陣の旋風が埃《ほこり》を巻き上げ、樹木を吹きまげ、恐ろしく二人に吹きつけた。そしてまた、前よりもいっそう凄《すご》い静寂が落ちて来た。オットーは思い切って、震え声で口を切った。
「夕立だ。帰らなきゃいけない。」
 クリストフは言った。
「帰ろう。」
 しかしもう遅かった。眼が眩《くら》むような猛烈な一条の光がほとばしり、空が唸《うな》り、雲の丸天井がとどろいた。たちまちのうちに二人は、暴風雨にとりまかれ、電光におびえ、雷鳴に耳を聾《ろう》し、全身ずぶ濡《ぬ》れになった。平坦《へいたん》な野のまんなかで、どちらの人家へも三十分以上の距離があった、水の渦巻きの中に、ほのかな明るみの中に、雷電の巨大な光が真赤にほとばしっていた。彼らは走りたかった。しかし雨のために服がこわばりついて、思うように歩くことさえできなかった。靴《くつ》はぶくぶくしていた。全身に水が流れていた。息もつけないほどだった。オットーは歯をうち震わし、狂気のように猛《たけ》りたっていた。彼はクリストフに気を悪くするようなことを言いたてた。立ち止まりたがった。歩くのは危険だと言い張った。道にすわってしまう、畑のまんなかに地面に寝転んでやる、などと言っておどかした。クリストフは返辞をしなかった。彼はなお歩きつづけながら、風と雨と電光とに眼も眩み、響きに驚き、やはり多少不安になっていたが、それをうち明けないで我慢していた。
 そしてにわかにからりとなった。雷雨はやって来たのと同じようにふいに通り過ぎてしまった。しかし彼らは二人ともあわれな様子になっていた。実際をいえば、クリストフは平素からだらしなかったので、少し服装が乱れたとてほとんど様子が変わらなかった。しかしオットーは、いつも服装をきちんと整えていたしそれに気を配っていたので、ひどいありさまだった。着物のまま風呂《ふろ》から出て来たかのようだった。クリストフは彼の方をふり向いて、その様子を見ながら、笑いがこみ上げてくるのを押えることができなかった。オットーは腹をたてる力もないほどがっかりしていた。クリストフはそれがかわいそうになって、快活に話しかけた。オットーは恐ろしい一|瞥《べつ》でそれに答えた。クリストフは彼を一軒の百姓家に連れ込んだ。彼らは盛んな火の前で身を乾かし、熱い葡萄《ぶどう》酒を飲んだ。クリストフはその出来事を面白がっていた。しかしそれはオットーの趣味には合わなかった。彼はふたたび野を歩いてる間、陰鬱《いんうつ》に黙り込んでいた。二人は口をとがらしながら帰って行き、別れる時にもたがいに手を差出さなかった。
 その暴挙の後、彼らは引きつづいて一週間以上会わなかった。彼らはたがいにきびしく批判し合った。しかし日曜の散歩を一度よして、みずからおのれを懲《こら》してしまうと、非常に退屈になって、恨みを忘れた。クリストフは例のとおり自分の方から申し出た。オットーはそれを承知してやった。そして彼らは仲直りをした。
 二人は気が合わないにもかかわらず、たがいに捨て去ることができなかった。彼らは多くの欠点をもっていたし、二人とも利己主義だった。しかしその利己心は無邪気なものであって、それを厭なものたらしむる成年期の打算をもたなかった。それは自覚しない利己心だった。ほとんど愛すべきものであって、彼らが真面目《まじめ》に愛し合うことを妨げなかった。彼らは非常に愛と献身とを欲していた。少年オットーは、自分を主人公にしたおおげさな献身の物語を考えながら、枕《まくら》の上で涙を流した。悲壮な出来事を想像し出して、その中で彼は、強い勇ましい大胆な者となり、想像的な敬慕の対象たるクリストフを保護してやった。クリストフの方では、麗わしいものや珍しいものを見聞きするたびごとに、「オットーがいたら!」と考えざるをえなかった。自分の全生活に友の面影を立ち交じらしていた。その面影は姿を変えて、非常なやさしみを帯びてき、彼はその実物を知ってるにもかかわらず、酔わされるような心地になった。オットーのある言葉をずっと後に思い出し、それを美化しては、情熱に駆られて身を震わした。二人はたがいに真似《まね》し合っていた。オットーは、クリストフの態度や身振りや手跡を真似た。クリストフは、影法師たる彼が、自分の言った一語一語をくり返し、自分の思想を新しい思想ででもあるかのようにもち出してくるのを、不快に思った。しかし彼は、自分もまたオットーの真似をしてることに気づかなかった。オットーの服の着方、歩き方、ある言葉の言い方、などを彼は見習った。それは一種の魅惑であった。二人はたがいに感染し合い、愛情に満ち満ちた心をいだいていた。その愛情は泉の水のように四方へあふれていた。友がその原因だと、彼らはおのおの想像していた。彼らはそれが青春期の覚醒《かくせい》であるとは知らなかった。

 クリストフは人を疑えない性質だったので、物を書いた紙片をそのままにしておいた。けれども本能的な羞恥《しゅうち》から、オットーに書き送る手紙の下書きとオットーからの返辞とは、ちゃんとしまっておいた。鍵《かぎ》はかけないで、楽譜帳の中にはさんでおいた。そうしておけばだれにも捜し出されはすまいと安心していた。彼は弟たちの意地悪を予期していなかった。
 彼は少し前から、弟たちが彼の方を眺めながら笑ったりささやき合ったりしてるのを、よく見かけた。彼らは切れ切れの文句を耳にささやき合っては、身をねじっておかしがっていた。クリストフにはその言葉が聞きとれなかった。そのうえ、彼らにたいするいつもの策略から彼は、彼らが言ったりしたりすることにはまったくの無関心を装っていた。ところが二、三の言葉が彼の注意を呼び起こした。身に覚えのある言葉のようだった。やがて、弟たちに手紙を読まれたことがもう疑えなくなった。そしてエルンストとロドルフとが、真面目《まじめ》くさった道化《どうけ》た様子で、「わが親愛なる魂よ、」と呼び合ってるところを、詰問してみたが、何にも聞き出しえなかった。悪賢い子供たちは、なんのことだかわからないようなふうをして、勝手な呼び方をしてもかまうものかと言った。手紙はそっくり元の場所にあったので、クリストフはそのうえ追究しなかった。
 それから少し後に、彼はエルンストが盗みをしてる現場を押えた。この小さな曲者は、ルイザが金をしまってる箪笥《たんす》の抽出《ひきだし》の中を捜していたのである。クリストフは彼をひどく突つきまわし、その機に乗じて、胸にあることをすっかり言ってやった。好意を欠いた言葉で、エルンストの悪事の数々を長たらしく並べたてた。エルンストはその訓誡を悪意にとった。クリストフから叱《しか》られる訳はないと傲然《ごうぜん》と答えかえした。そして兄とオットーとの友情を、それとなくほのめかしてやった。クリストフにはわからなかった。しかし争論の中にオットーの名前がもち出されるのを聞いた時、彼はエルンストにその説明を迫った。子供は冷笑した。それから、クリストフが真蒼《まっさお》になって怒るのを見ると、彼は恐《こわ》がって、もう口をきこうともしなかった。クリストフはこういうふうでは何にも聞き出しえないのを覚《さと》った。彼は肩をそびやかしながらそこにすわり、深い軽蔑の様子を見せた。エルンストは気色を損じて、また鉄面皮な言葉を言い出した。彼は兄の心を傷つけてやろうとつとめ、ますます下賤《げ
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