あったら!」
「わが愛人よ、なんと君は馬鹿だろう。」とクリストフは答えてやった。「いや許してくれ。しかし君の苦労性な弱気さにぼくは腹がたってくる。ぼくが君を愛しなくなったらなどと、どうして尋ねるんだ! ぼくにとっては、生きることがすなわち君を愛することなんだ。いや死でさえもぼくの愛をどうすることもできない。もし君自身、ぼくの愛を壊《こわ》そうと思っても、どうにもできまい。君がぼくを裏切っても、ぼくの心を引裂いても、ぼくは君から鼓吹されるこの愛について、君を祝福しながら死んでゆくだろう。だからもうこれ限り、そんな弱々しい不安の念でみずから心配しまたぼくを苦しめることを、どうかやめてくれ!」
 しかし一週間もたつと、彼の方からこんなことを書き送った。
「もうまる三日、君の口から出るなんらの言葉にも接しないでいる。ぼくはぞっとする。君はぼくのことを忘れてるんじゃないかしら? そう思うと全身の血が冷えきってしまう。……そうだ、それに違いない。先日もぼくは、ぼくにたいする君の冷淡さに気づいた。君はもうぼくを愛しないんだ! ぼくから離れようと考えてるんだ!……いいか、もし君がぼくを忘れたら、もしぼくを裏切るようなことがあったら、ぼくは君を犬のように打ち殺してしまってやる!」
「わが心よ、君はぼくを迫害するのか!」とオットーは悲嘆した。「君はぼくに涙を流させる。ぼくはこんな目に会う覚えは少しもない。しかしなんでも君の言うままになろう。君はぼくにたいしてあらゆる権利をもっている。もし君がぼくの魂を破壊するにしても、ぼくの魂の一片は、君を愛するために永く生きているだろう!」
「天の神よ!」とクリストフは叫んだ、「ぼくは友を泣かした!……ぼくをののしってくれ、ぼくを殴ってくれ、ぼくを踏みにじってくれ! ぼくは惨《みじ》めな人間だ。ぼくは君の愛に価しない!」
 二人は、なんでもない他人に書き送る手紙と自分たちの手紙とを区別するために、宛名《あてな》の書き方に特別なくふうをこらしていたし、また切手をはるにも、封筒の下部の右の隅《すみ》に、逆さに斜めにはりつけることにしていた。そういう子供らしい秘密は、彼らにとって、愛の楽しい神秘の魅力をそなえていた。

 ある日|出稽古《でげいこ》からの帰り道に、クリストフはオットーが同じ年ごろの少年と連れだってるのを、次の街路に見かけた。彼らはいっしょに親しく談笑していた。クリストフは蒼《あお》くなって、彼らが街路の曲り角《かど》に見えなくなるまで、その後を見送った。彼らは少しもクリストフの姿に気づかなかった。クリストフは家に帰った。一片の雪が太陽の面をかすめたようなものだった。すべてが薄暗くなった。
 次の日曜に会った時、クリストフは初めなんとも言わなかった。しかし三十分ばかり散歩した後に、彼はしぼるような声で言った。
「水曜日に、君をクロイツ街で見かけたよ。」
「そう!」とオットーは言った。
 そして彼は赤くなった。
 クリストフはつづけて言った。
「君は一人じゃなかったね。」
「ああ、」とオットーは言った、「いっしょだった。」
 クリストフは唾《つば》をのみ込み、平気を装った調子で尋ねた。
「あれはだれだい?」
「従弟《いとこ》のフランツだ。」
「そうか。」とクリストフは言った。
 それからちょっと後にまた言った。
「君は従弟《いとこ》のことをぼくに話したことがなかったね。」
「ラインバッハに住んでるんだ。」
「たびたび会うのかい。」
「時々こっちへやって来るよ。」
「そして君も、向うへ行くのかい。」
「時々だ。」
「そうか。」とクリストフはまた言った。
 オットーは話題を変えてもかまわなかったので、嘴《くちばし》で木をつついてる一匹の小鳥をさし示した。二人は他のことを話した。十分ばかりしてから、クリストフはまた突然言い出した。
「君たちは気が合うのかい?」
「だれと?」とオットーは尋ねた。
(だれとだか彼にはよくわかっていた。)
「従弟とさ。」
「ああ合うよ。どうして?」
「いやなんでもないんだ。」
 オットーはいつも悪い冗談でからかわれるので、従弟をあまり好まなかった。しかし妙な意地悪な本能から、やがてこうつけ加えて言った。
「たいへんやさしいよ。」
「だれが?」とクリストフは尋ねた。
(だれがだか彼にはよくわかっていた。)
「フランツさ。」
 オットーはクリストフの言葉を待った。しかしクリストフは聞こえなかったようなふりをしていた。榛《はん》の枝を杖に切っていた。オットーはまた言った。
「面白い奴だよ。いつでもいろんな話を知ってるよ。」
 クリストフは平然と口笛を吹いた。
 オットーはますます言いつのった。
「そして実に頭がよくて……上品で……。」
 クリストフは肩をそびやかした。こう言うがようだった。
「そんな奴がおれに何の関係があるんだ?」
 そしてオットーが気を悪くして、なお言いつづけようとした時、クリストフは荒々しくその言葉をさえぎって、向うのある地点まで駆けっこを強《し》いた。
 彼らはその午後じゅう、もはやこの問題に触れなかった。しかし、二人の間には珍しいことであるが、とくにクリストフにおいては珍しいことであるが、馬鹿丁寧さを装って、冷やかに争っていた。クリストフの喉《のど》には言葉がまだつまっていた。ついに彼は我慢ができなくなって、五歩ばかり後からついてくるオットーの方へ、途中でふり向いて、激しく彼の手を取り、一度に言ってのけた。
「オットー、いいかね、ぼくは君がフランツとそんなに仲よくするのを好まないんだ。なぜって……それは、君がぼくの友だからだ。君がだれかをぼくよりいっそう愛するのを、ぼくは好まないんだ。ぼくは厭《いや》なんだ。ねえ、君はぼくのすべてなんだ。そんな……できないはずだ、いけないはずだ。もし君がぼくのものでなくなったら、ぼくはもう死ぬよりほかないだろう。ぼくはどんなことをするかわからない。自殺するかもしれない。君を殺すかもしれない。いや、勘弁してくれ!……」
 彼の眼からは涙がほとばしっていた。
 オットーは、その脅《おびや》かすように唸《うな》ってる苦しみの真面目《まじめ》さに、感動しまた恐れて、急いで誓った、クリストフほど深くはだれも愛してはいないし、また将来決して愛しはしない、フランツは自分にとってなんでもない、もしクリストフがそう望むならもう決してフランツに会いもすまいと。クリストフはそれらの言葉を飲み込んで、心がまた生き返ってきた。笑みを浮べ、激しい息をついた。彼はオットーに真心から感謝した。自分の乱暴を恥じた。しかし非常に重苦しい胸は和《やわ》らいだ。二人は向き合って、手を取り合いながらじっとつっ立って、たがいに顔を見合った。たいへん嬉《うれ》しく、またたがいの身をはじらっていた。彼らは黙って帰りかけた。それからまた話しだして、ふたたび快活な気分になった。かつて知らなかったほどひしといっしょに結び合わされたのを感じていた。
 しかしこの種のことは、それが最後のものではなかった。今やオットーはクリストフにたいする自分の力を感じたので、それをみだりに使おうとした。彼は急所を心得ていて、そこを突つきたくてたまらなかった。しかしそれは、クリストフの忿怒《ふんぬ》を面白がってるからではなかった。否反対に、彼はその忿怒を恐れていた。それでも彼はクリストフを苦しめて、自分の力を確かめるのだった。彼は意地悪くはなかったが、女の子のような心をもっていた。
 で彼は約束にもかかわらず、フランツや他の友だちと腕を組合わしてるところを、なおつづいて見せつけた。彼らはいっしょに大騒ぎをし、彼はわざとらしく笑っていた。クリストフが苦情をもち出すと、彼はそれを嘲笑《あざわら》って、本気にとるような様子を見せなかった。そしてついに、クリストフが眼の色を変え、憤りに唇を震わすのを見ると、彼もまた調子を変え、心配そうな様子をし、もう二度としないと約束した。けれども翌日にはまたそれを始めた。クリストフは激しい手紙を書いて、彼にこう呼びかけた。
「下司《げす》野郎、もう貴様のことなんか聞くもんか。もう赤の他人だ。どっかへ行っちまえ、貴様のような犬どもは!」
 しかし、オットーが涙っぽい一言を書き送るか、あるいは一度実際やったように、永久に変わらない心を象徴する一輪の花を送るかすれば、それだけでクリストフの心は後悔の念に解け、次のような手紙を書くのだった。
「わが天使よ、ぼくは狂人だ。ぼくの愚蒙《ぐもう》を忘れてくれ。君は最もりっぱな人だ。君の小指一本だけでも、この馬鹿なクリストフ全体より優《まさ》っている。君は賢いやさしい愛情の宝をもっている。ぼくは涙を浮べて君の花にくちづけする。花はここに、ぼくの心臓の上にある。ぼくはそれを、拳《こぶし》を固めて肌《はだ》の中に押しこむのだ。それでぼくは自分の血を流したい、君の麗わしい温情とぼくの恥ずかしい愚かさとを、いっそう強く感ずるようにと!……」
 けれども彼らはたがいに倦《あ》き始めていた。小さな諍《いさか》いは友情を維持するものだというのは、誤りである。クリストフは非道な態度をとるようにオットーから仕向けられるのを恨んでいた。彼はよく反省しようとつとめ、自分の専横をみずからとがめた。彼の誠実な激越な性質は、初めて愛を味わうと、それに自分の全部を与えるとともに、また向うからも全部を与えてもらいたかった。彼は友情を分つことを許さなかった。友にすべてをささげるの覚悟でいた彼は、友の方でも自分にすべてをささげるのが、正当でまた必然のことでさえあると考えていた。しかし彼は、世の中は自分のような一徹な性質をもととして建てられてるものでないと感じ始め、事物にその与ええないものを要求してるのだと感じ始めた。そこで、彼はみずからに打ち勝とうとつとめた。彼はきびしくおのれをとがめ、みずから利己主義者であるとし、友の愛情を独占するの権利はない者であるとした。彼は真剣な努力をして、たとい自分はいかにつらかろうとも、友をまったく自由にさせようとした。謙譲な精神からわざとつとめて、フランツを疎《うと》んじないようにオットーに勧めた。オットーが自分より他の者と交わって喜んでるのを見るのが嬉《うれ》しいと、思ってるらしい様子を装った。しかしオットーはそんなことに騙《だま》されはしなかったが、意地悪な心から彼の言葉どおりを行なった。すると彼は顔を曇らせないではおれなかった。そしてにわかにまた怒りたった。
 厳密にいえば、もしオットーが彼より他の友だちの方を好むとしても、それを彼は許しえたであろう。しかし彼がオットーに見逃してやることのできなかったことは、その不真実であった。オットーは偽瞞《ぎまん》家でも虚構家でもなかったが、あたかも吃者《どもり》が言葉を発するのに困難を感ずるように、真実を言うのに天性的の困難を感じていた。彼が言うことは決して、全然ほんとうでもなければ全然偽りでもなかった。自分の感情をきまり悪がっていたのかあるいはよくわかっていなかったのか、とにかく彼は、まったくはっきりと口をきくことはまれであった。彼の答えはいつも曖昧《あいまい》だった。彼は何事についても、隠しだてをしたりごまかしたりして、クリストフを怒らせた。錯誤を指摘されると、彼はそれを自認するどころか、頑固《がんこ》に否定して、馬鹿げた作りごとばかり並べたてた。ある日クリストフは、むかっ腹をたてて彼の頬《ほお》を殴りつけた。そして彼は、もうこれが二人の友情の終りであると思い、オットーは決して自分を許してくれないだろうと思った。しかしオットーは、しばらくむっつりしていた後に、何事も起こらなかったかのようにまた彼のもとにもどって来た。クリストフの乱暴を少しも恨んではいなかった。おそらくそれを面白がってるのかもしれなかった。そしてまた一方では、クリストフがいつも瞞《だま》されやすくて、どんな偽りの餌《えさ》をも口いっぱいに飲み込んでしまうのを、好ましく思ってはいなかった。そのために多少クリストフを軽蔑し
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