子が非常に骨折って得たものまで飲んでしまった。ルイザは泣いてばかりいた。家の中に彼女の物とては何にもないし、彼女は一文なしで結婚して来たのだと、昔のことを夫からきびしく言われてから、もう抵抗するだけの元気もなかった。クリストフは逆らってやった。するとメルキオルは彼を殴りつけ、悪戯《いたずら》っ児《こ》扱いにし、その手から金を奪い取った。子供はもう十二、三歳で、身体は頑丈で、折檻《せっかん》されると怒鳴り出した。けれどもまだ反抗するのが恐かった。取られるままになっていた。ルイザと彼と、二人の唯一の手段は、金を隠すことだった。しかしメルキオルは、二人が不在な時に、その隠し場所を見つけるのに不思議なほど巧みだった。
 間もなく、彼はもうそれでもあきたらなくなった。彼は父から受け継いだ品物を売った。書物や、寝台や、家具や、音楽家の肖像などが、家から出てゆくのを、クリストフは悲しげに眺めた。彼はなんとも言うことができなかった。しかし、ある日メルキオルが、祖父の贈物の古ピアノにひどくつき当たり、膝《ひざ》をなでながら怒りに任してののしり、家の中が動けないほどいっぱいになってると言い、こんな古道具はすっかり厄介払《やっかいばらい》をしてやると言った時、クリストフは高い叫び声をあげた。祖父の家を、クリストフが幼年時代の最も美しい時間を過ごしたその大事な家を、売り払ってしまうために、祖父の道具をすっかりもち込んで来てからは、どの室もいっぱいふさがってるというのは、ほんとうだった。またその古ピアノは、もうたいした価値もなくなっており、音は震えるようになっていて、久しい以前からクリストフはそれを捨て、大公爵から賜わった新しいりっぱなピアノをばかりひいているというのも、ほんとうだった。しかしその古ピアノは、いかに古くいかに不具であろうとも、クリストフにとっては最良の友であった。それは音楽の無辺際《むへんざい》な世界を子供に開き示してくれた。その艶《つや》やかな黄色い鍵盤《キイ》の上で、子供は音響の王国を発見した。それは祖父の手になったもので、祖父は孫のために数か月かかってそれを修理したのだった。それは聖《きよ》い品であった。それゆえクリストフは、だれにもそれを売るの権利はないと抗弁した。メルキオルは黙れという命令を様子で知らした。クリストフは、そのピアノは自分のもので人に手を触れさせるものかと、ますます強く喚《わめ》きたてた。彼はひどい折檻を受けることと期待していた。しかしメルキオルは、厭な笑顔で彼を眺め、そして口をつぐんだ。
 翌日になると、クリストフはそのことを忘れていた。疲れてはいたがかなり上|機嫌《きげん》で家に帰って来た。ところが弟たちの狡猾《こうかつ》な眼付に気をひかれた。二人とも書物を読み耽《ふけ》ってるふうを装っていた。彼の様子を見守り彼の一挙一動を窺《うかが》いながらも、彼に見られるとまた書物に眼を伏せた。きっと何か悪戯《いたずら》をされたに違いないと彼は思った。しかしそんなことに慣れていた。悪戯を見つけたらいつものとおり殴りつけてやろうときめていたので、別に心を動かさなかった。それであえて穿鑿《せんさく》しようともしなかった。そして父と話しだした。父は暖炉の隅にすわっていて、柄にもなく興味あるふうを見せながら、その日のことを尋ねだした。彼は話してるうち、メルキオルが二人の子供とひそかに目配《めくば》せしてるのを認めた。彼は心にはっとした。自分の室に駆け込んだ。……ピアノの場所が空《から》になっていた。彼は悲しみの叫び声をあげた。向うの室に弟たちの忍び笑いが聞えた。顔にかっと血が上った。彼は彼らの方へ飛んでいった。そして叫んだ。
「僕のピアノを!」
 メルキオルはのんきなしかもまごついた様子で顔を上げた。それで子供たちはどっと笑った。メルキオル自身も、クリストフのあわれな顔付を見ると、我慢ができないで、横を向いてふきだした。クリストフは自分が何をしてるかみずから知らなかった。狂人のように父に飛びかかった。メルキオルは肱掛椅子《ひじかけいす》に反《そ》り返っていたので、身をかわす隙《すき》がなかった。子供はその喉元《のどもと》をつかんで叫んだ。
「泥坊《どろぼう》!」
 それはただ一瞬の間だった。メルキオルは身を揺って、猛然としがみついてたクリストフを、床《ゆか》の上に投げ飛ばした。子供の頭は暖炉の薪台《まきだい》にぶつかった。クリストフはまた膝頭《ひざがしら》で起き上がり、頭を振り立て、息づまった声でくり返し叫びつづけた。
「泥坊! お母さんやぼくのものを盗む泥坊め!……お祖父《じい》さんのものを売る泥坊め!」
 メルキオルはつっ立って、クリストフの頭の上に拳をふり上げた。クリストフは憎悪の眼でいどみかかり、忿怒《ふんぬ》のあまり身
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