を震わしていた。メルキオルもまた震えだした。それから腰を降ろして、両手に顔を隠した。二人の子供は、鋭い叫び声をたてて逃げてしまっていた。騒動につづいて沈黙が落ちてきた。メルキオルは訳のわからぬことをぶつぶつ言っていた。クリストフは壁にぴったり身を寄せ、歯をくいしばりながら、じっと父をにらみつけてやめなかった。メルキオルはみずから自分をとがめ始めた。
「俺は泥坊だ! 家の者から剥《は》ぎ取る。子供たちからは軽蔑される。いっそ死んだ方がましだ。」
 彼が愚痴を言い終えた時、クリストフは身動きもしないで、きびしい声で尋ねた。
「ピアノはどこにあるんだい?」
「ウォルムゼルのところだ。」とメルキオルは彼の方を見ることもできずに言った。
 クリストフは一歩進んで言った。
「金は?」
 メルキオルはすっかり気圧《けお》されて、ポケットから金を取出し、それを息子に渡した。クリストフは扉の方へ進んでいった。メルキオルは彼を呼んだ。
「クリストフ!」
 クリストフは立止まった。メルキオルは震え声で言った。
「クリストフ……おれを蔑《さげす》むなよ!」
 クリストフは彼の首に飛びついて、すすり泣いた。
「お父さん、お父さん、蔑みはしません。ぼくは悲しいや!」
 二人とも声高く泣いた。メルキオルは嘆いた。
「おれの罪じゃないんだ。これでもおれは悪人じゃない。そうだろう、クリストフ。ねえ、これでもおれは悪人じゃないんだ。」
 彼はもう酒を飲まないと誓った。クリストフは疑わしい様子で頭を振った。するとメルキオルは、金が手にあると我慢ができないのだと自認した。クリストフは考えた、そして言った。
「そんなら、お父さん、こうしたら……。」
 彼は言いよどんだ。
「どうするんだい?」
「気の毒で……。」
「だれに?」とメルキオルは質樸《しつぼく》に尋ねた。
「お父さんに。」
 メルキオルは顔をしかめた。そして言った。
「かまやしないよ。」
 クリストフは説明してやった、家の金はことごとく、メルキオルの給料もみな、他人に委託しておいて、毎日かもしくは毎週かに、必要なだけをメルキオルに渡してもらうようにしたらいいだろうと。すると、メルキオルは卑下した気持になっていたので――彼は酒に飢えきってはいなかった――申出での条件をさらにひどくして、自分が受けてる給料を自分の代理としてクリストフに正規に支払ってもらうように、今ただちに大公爵へ手紙を書こうと言い出した。クリストフは父の屈辱が恥ずかしくてそれを拒《こば》んだ。しかしメルキオルは、犠牲になりたくてたまらないで、頑として手紙を書いてしまった。彼は自分の寛仁大度《かんじんたいど》な行ないにみずから感動していた。クリストフは手紙を手に取ることを拒んだ。ルイザもちょうどもどって来て、事の様子を知り、夫にそんな侮辱を与えなければならないなら、むしろ乞食《こじき》にでもなった方がいいと言い出した。彼に信頼してると言い添え、彼は皆を愛してるので、行ないを改めるに違いないと言い添えた。しまいには皆感動して抱き合った。そしてメルキオルの手紙は、テーブルの上に忘れられ、戸棚の下に落ち込んでいって、そのままだれの眼にもつかなかった。
 しかし数日の後、ルイザは室を片づけながらその手紙を見つけた。ところがその時彼女は、メルキオルがまた不身持になってたので、非常に不仕合せだった。それで手紙を引裂かないで、取っておいた。それから数か月の間、苦しみを忍びながら、その手紙を使うという考えをいつも押えつけて、そのまま保存しておいた。けれどもある日、メルキオルがクリストフを殴ってその金を奪い取るところを、また見かけた時、もう我慢ができなかった。そして泣いてる子供といっしょに、手紙を取りに行き、それを子供に渡して言った。
「行っておいで!」
 クリストフはまだ躊躇《ちゅうちょ》した。けれども、家に残ってるわずかなものまですっかり消費しつくされまいとすれば、もはや他に方法はないと覚《さと》った。彼は宮邸へ出かけた。二十分ほどの道を行くのに一時間近くかかった。自分のしてることが恥ずかしくてたまらなかった。この数年間の孤立のうちにつのっていた彼の高慢心は、父の不品行を公然と認定するという考えに、血をしぼるほど切なかった。妙なしかも自然な矛盾ではあったが、彼はその不品行がすべての人にわかってるということを知ってながら、しかも執拗《しつよう》にそうでないと信じたがり、何にも気づかないふうを装っていた。それを認めるよりもむしろ自分を粉微塵《こなみじん》にされたかった。そして今や、自分から進んで!……彼は幾度となく引返そうとした。宮邸に着こうとするとまた足を返しながら、二三度町を歩き回った。しかし自分一人の問題ではなかった。母にも弟どもにも関係のあることだった。父が
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