ん》してゆく。
クリストフはそのことを、夜昼となく考えていた。臨終の苦悶の記憶に追っかけられ通しだった。恐ろしい呼吸の音が耳には聞えていた。自然がすべて変わってしまった。氷のような靄《もや》が自然を覆《おお》ってるかと思われた。周囲いたるところに、どちらを向いても、盲目な「獣」の致命的な息を、顔の上に感じた。その破壊の「力」の拳《こぶし》の下にあって、どうにも仕方がないことが、わかっていた。しかしそういう考えは、彼を圧倒するどころか、かえって憤激と憎悪とに燃えたたした。彼は少しも諦《あきら》め顔をしなかった。不可能に向かってまっしぐらに突進していった。額を傷つけようと、自分の方が弱いとわかろうと、さらに意に介しないで、苦悩にたいし反抗することを少しもやめなかった。それ以来彼の生涯《しょうがい》は、許すべからざる「運命」の獰猛《どうもう》さにたいするたえざる争闘となった。
彼の心に纏綿《てんめん》してくる考えは、ちょうど生活の困苦のためにそらされた。ジャン・ミシェル一人で引止めていた一家の零落は、彼がいなくなるとすぐにさし迫ってきた。クラフト一家の者は、彼の死とともに、生活のたよりを大半失ってしまった。貧苦が家にはいってきた。
メルキオルがそれをなおひどくした。彼は縛られてた唯一の監督から解放されると、いっそうよく働くどころか、まったく不品行に身を任してしまった。ほとんど毎夜のように、酔っ払ってもどって来、稼《かせ》いだものを少しももち帰らなかった。それに稽古《けいこ》口もおおかた失っていた。ある時、まったく泥酔《でいすい》の姿をある女弟子の家に現わした。その破廉恥な行ないの結果、どの家からも追い払われた。管弦楽団の間では、父親の追懐にたいする敬意からようやく許されていた。しかしルイザは、今にもふしだらをして免職になりはすまいかと、びくびくしていた。すでにもう彼は、芝居の終るころようやく奏楽席にやって来た晩なんかは、解職すると言っておどかされていた。二、三度は、やって来ることをまったく忘れたことさえあった。それからまた、無茶なことを言ったりしたりしたくてたまらなくなる馬鹿げた興奮の場合には、どんなことでもやりかねなかった。ある晩なんかは、ワルキューレ[#「ワルキューレ」に傍点]のある幕の最中に、自分のヴァイオリン大|協奏曲《コンセルト》をひきたいと考えついた。それを止めさせるのに皆で大骨折をしたほどだった。また、開演中に、舞台の上や自分の頭の中に展開する面白い光景に魅せられて、突然大笑いをすることもあった。そして彼は一同の慰み物になっていた。そしてその滑稽のゆえに、多くのことを大目に見過ごしてもらっていた。しかしそう寛大に見られるのは、厳酷な取扱いを受けるのよりもなおいけないことだった。クリストフにはそれが恥しくてたまらなかった。
子供は今や管弦楽団の第一ヴァイオリニストとなっていた。メルキオルが浮々した気分でいる時には、それを監視したり、時によっては補助してやったり、あるいは無理に黙らしたりすることに、気を配っていた。それは楽なことではなかった。そしていちばんいいのは、まったく父に注意を向けないことだった。そうでないと、酔っ払いは自分が見られてるなと感ずるとすぐに、しかめ顔をしたり、あるいは話をやりだした。クリストフは、父が何かひどいことをやるのが見えやすまいかとびくびくしながら、眼をそらした。彼は自分の職務に我を忘れようとつとめた。しかしメルキオルの無駄口やその隣りの人々の笑い声やを、聞かないわけにはゆかなかった。眼には涙が出て来た。善良な楽手たちは、それに気づいて、彼を気の毒に思った。彼らは笑い声を押えた。クリストフに隠れて父親の噂《うわさ》をするようにした。しかしクリストフは彼らの憐れみを感知していた。自分が出て行くとすぐに嘲弄《ちょうろう》が始まるのを、メルキオルが町じゅうの笑草になってるのを、彼は知っていた。どうにもしようがなかった。それが苦しみの種であった。芝居がはねると、彼は父を家に連れて帰った。父に腕を貸し、その駄弁を聞いてやり、その危い足取りを人に知らせまいと努めた。しかし他人はだれが彼に欺《あざむ》かれる者があったろう? そしてまた、いかほど努力しても、首尾よくメルキオルを家まで連れてゆけることは滅多になかった。街路の曲り角まで来ると、メルキオルは友だちと急な面会の約束があると言いだした。なんと説いても、その約束をまげさせることはできなかった。それにまたクリストフは、ひどい親子争いをして、近所の人に窓から見られるようなことになりたくなかったので、用心してあまり言い張りもしなかった。
生活の金はすべてそちらに取られていた。メルキオルは自分で儲《もう》けただけを飲んでしまうのでは満足しなかった。妻や
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