兄に――クリストフにも聞えた――ささやいた。クリストフはその言葉にまたむっとした。そして、人を侮辱したその考えをやっつけてやろうと思って、むちゃくちゃに声をしぼって言いたてた、自分はメルキオル・クラフトの子で、母は料理番ルイザであると。――そういう身分は他のどんな身分にも劣らずりっぱだと彼には思えたのであるし、またそれが正当だったのである。――しかし他の二人の子供は、もとよりその報告を面白がっていて、彼を前よりも重んずるようなふうは見えなかった。かえって主人らしい調子をとった。将来何をするつもりか、やはり料理人か御者かになるつもりなのかと、そんなことを彼に尋ねた。クリストフはまた黙り込んだ。胸を氷で貫かれたような気がした。
彼が黙り込んでるのに力を得て、二人の金持ちの子供は、突然この貧乏な子供にたいして、子供にありがちな無理由の残酷な反感を懐《いだ》いて、彼をいじめてやる面白い仕方はないかと考えた。女の子の方がとくに熱心だった。クリストフが窮屈な服を着てるので楽には走れないことを見てとった。そして障害物を飛び越させるといううまいことを思いついた。そこで、小さな腰掛で柵《さく》をこしらえて、クリストフにそれを飛び越せと迫った。かわいそうにも彼は、なぜ飛びにくいかをうち明けて言いえなかった。彼は全身の力を集めて、身を躍らしたが、地面に転ってしまった。まわりではどっと笑い声が起こった。彼はまたやり直さなければならなかった。眼に涙を浮べて、自棄《やけ》になってやってみた。するとこんどはうまく飛べた。いじめる方ではそれを快しとしないで、柵が十分高くないのだときめた。そして他の道具を積み添えて、危険なほどにしてしまった。クリストフは反抗しようとした。もう飛ばないと言い切った。すると女の子は彼を卑怯《ひきょう》者だと呼びたてて、恐《こわ》がってるのだと言った。クリストフはそれに我慢できなかった。そして転ぶことを覚悟で飛んでみると、はたして転がってしまった。足が障害物に引っかかって、何もかも彼といっしょにひっくり返った。彼は手の皮をすりむき、また危く頭を割るところだった。そしてなお不幸なことには、服の両|膝《ひざ》やその他のところが破けた。彼は恥ずかしくてたまらなかった。まわりには二人の子供の喜び踊ってるのが聞えた。彼は痛切な苦しみを受けた。そしてはっきり感じた、彼らが自分を軽蔑《けいべつ》してることを、自分をきらってることを。なぜなのか、なぜなのか? 彼にはむしろ死ぬ方が望ましかった!――他人の悪意を初めて見出した子供の苦しみ、それ以上に残忍な苦しみはない。子供は世界じゅうの者から迫害されてるように考える、そして自分を支持してくれるものは何ももたない。もう何もない、もう何もないのだ!……クリストフは起き上がろうとした。男の子は彼をまた押し倒した。女の子は彼を足で蹴《け》った。彼はも一度起き上がろうとした。彼らは二人いっしょに飛びかかって来て、彼の顔を地面に押し伏せながら背中にのしかかった。その時彼は怒りの念にとらえられた。あまりにひどかった! ひりひり痛んでる両手、裂けたりっぱな服――彼にとっての大災難――、恥辱、苦痛、不正にたいする反抗、一度にふりかかって来た多くの不幸が融《と》け合って、物狂おしい憤怒《ふんぬ》に変わった。彼は両膝と両手で四つ這《ば》いになり、犬のように身を揺って、迫害者らをそこに転がした。そして彼らがふたたび襲いかかって来ると、彼は頭を下げて突き進み、女の子の頬《ほお》を殴りつけ、男の子を花壇の中に一撃で打ち倒した。
激しい悲鳴が起こった。二人の子供は疳《かん》高い泣声をたてて家の中に逃げ込んだ。扉のがたつく音がし、怒った叫び声が聞えた。夫人は長衣の裳裾《もすそ》の許すかぎり早く駆けつけて来た。クリストフは彼女がやって来るのを見たが、逃げようとはしなかった。彼は自分の仕業に慄然《りつぜん》としていた。それはたいへんなことだった、罪であった。しかし彼は少しも後悔はしなかった。彼は待受けた。もう取り返しがつかなかった。それだけに始末もいい! 彼は絶望あるのみだった。
夫人は彼に飛びかかった。彼は打たれるのを感じた。激しい声でやたらに何か言われてるのを耳に聞いたが、なんのことだか少しも聞き分けられなかった。二人の敵は彼の恥辱を見物しにもどって来て、声の限り怒鳴りたてていた。召使らも来ていた。がやがや騒ぐばかりだった。最後に大打撃としては、ルイザが人に呼ばれてそこに出て来た。そして彼を庇《かば》うどころか、彼女もまた訳も分らない先から彼を打ち始め、謝《あやま》らせようとした。彼は怒って言うことをきかなかった。彼女はますます強く彼を突っつき、手をとらえて夫人と子供たちとの方へ引きずってゆき、その前にひざまずかせようとした。しかし彼は足をふみ鳴らし、わめきたて、母の手に噛《か》みついた。そしてしまいには、笑ってる召使らの間に逃げ込んでしまった。
彼は胸がいっぱいになり、憤りと打たれた跡とで顔をほてらして、立ち去っていった。何にも考えまいと努めた。往来で泣くのがいやなので足を早めた。涙を流して心を和げるために、どんなにか家に早く帰りたかった。喉《のど》がつまり頭が逆上《のぼ》せていた。彼はわっと泣き出した。
ついに家へ着いた。黒い古階段を駆け上って、河に臨んだ窓口のいつもの隠れ場所までやっていった。そこで息を切らして身を投げ出した。涙がどっと出て来た。なぜ泣くのか自分でもよくは分らなかった。けれど泣かずにはおられなかった。そして初めの涙がほとんど流れつくしても、なお泣いた。自分とともに他人をも罰せんとするかのように、自分自身を苦しめるために、憤りの念に駆られてやたらに泣きたかったのである。それから彼は考えた、父がやがて帰って来るだろう、母は何もかも言いつけるだろう、災はまだなかなか済みはしないと。どこへでもかまわないから逃げ出してしまって、もう二度と帰っては来まい、と彼は決心した。
階段を降りかけてるとちょうど、もどってくる父に彼はぶっつかった。
「何をしてるんだ、悪戯《いたずら》児め。どこへ行くんだ?」とメルキオルは尋ねた。
彼は答えなかった。
「何か馬鹿なことをしたんだな。何をしたんだ?」
クリストフは強情に黙っていた。
「何をしたんだ?」とメルキオルはくり返した。「返辞をしないか?」
子供は泣き出した。メルキオルは怒鳴り出した。そしてたがいにますますひどくやってると、ついにルイザが階段を上ってくる急ぎ足の音が聞えた。彼女はまだすっかりあわてきったままもどって来た。そしてまず激しく叱《しか》りつけながら、ふたたび彼を打ち始めた。メルキオルも事情が分るや否や――否おそらく分らないうちから――牛でも殴るような調子でいっしょになって平手打を加えた。二人とも怒鳴りたてていた。子供はわめきたてていた。しまいには彼ら二人で、同じ憤りからたがいに喧嘩《けんか》を始めた。子供を殴りつけながらメルキオルは、子供の方が道理《もっとも》だと言い、金をもってるから何をしてもかまわないと思ってる奴らの家に働きに出かけるからこそ、こんなことになるんだと言った。またルイザは子供を打ちながら、あなたこそ実に乱暴だ、子供に手を触れてはいけない、怪我《けが》をさしてしまったではないか、と夫に向かって怒鳴った。実際クリストフは少し鼻血を出していた。しかし彼はみずからそれをほとんど気にかけていなかった。そして母はなお叱りつづけていたので、彼女から濡《ね》れた布を手荒く鼻につめてもらっても、別にありがたいとは思わなかった。しまいに彼は薄暗い片隅に押し込まれて、そこに閉じこめられたまま晩飯も与えられなかった。
二人がたがいに怒鳴り合ってるのを、彼は聞いた。そしてどちらの方が余計憎いか分らなかった。母の方であるような気もした。なぜならそんな意地悪い仕打をかつて母から期待したことがなかったから。その日のあらゆる災害が一度に彼の上に圧倒してきた、彼が受けたすべてのこと、子供らの不正、夫人の不正、両親の不正、それから――よく理解できないがただ生傷のように感ぜられたことであるが――彼があれほど誇りにしていた両親が意地悪い軽蔑《けいべつ》すべき他人の前に頭の上がらないこと。彼が初めて漠然と意識したその卑怯《ひきょう》さは、いかにも賤《いや》しむべきことのように彼には思われた。彼のうちにあるすべては揺り動かされた、家の者らにたいする尊敬も、彼らから鼓吹された宗教上の敬畏《けいい》の念も、人生にたいする信頼の念も、他人を愛しまた他人から愛せられようという純朴《じゅんぼく》な欲求も、盲目的ではあるが絶対的である道徳上の信念も。それは全部の倒壊であった。身を護《まも》る手段もなく、身をのがれる術《すべ》もなく、獰猛《どうもう》な力のためにおしつぶされた。彼は息がつまった。もう死ぬような気がした。絶望的な反抗のうちに全身を凝り固めた。壁に向かって拳固《げんこ》や足や頭でぶつかってゆき、わめきたて、痙攣《けいれん》に襲われ、家具に突き当って怪我しながら下に倒れてしまった。
両親は駆けつけて来て、彼を腕に抱きとった。そしてこんどは、われ先にと彼にやさしくしてくれた。母は彼に着物をぬがせ、寝床に連れてゆき、その枕頭《ちんとう》にすわって、彼がいくらか落着くまでそばについていた。しかし彼は少しも心を和らげず、何一つ勘弁してやらず、彼女を抱擁すまいとして眠ったふりをした。母は悪者であり卑怯者であるように思われた。そして、生きるために、また彼を生きさせるために、彼女がどんなに苦しんでいるか、彼と反対の側に立って彼女がどんなに心を痛めたか、それを彼は夢にも知らなかった。
幼い眼の中に蓄えられてる驚くべき涙の量を、最後の一滴まで流しつくした後に、彼は少し気分がやわらいだ。彼は疲れていた。しかし神経があまり緊張していてよく眠れなかった。半ばうとうとしていると、先刻の種々な面影が浮かび出てきた。とくによく見えてきたのは、あの女の子であって、その輝いてる眼、人を軽んずるようにぴんとはね上がってる小さな鼻、肩に垂れてる髪の毛、露《あら》わな脛《すね》、子供らしいまた勿体《もったい》ぶった言葉つき、などまではっきり浮かんできた。彼はその声がまた聞えるような気がして身を震わした。彼女にたいしてどんなに自分が馬鹿げていたかを思い起こした。そして荒々しい憎悪を感じた。辱《はずか》しめられたことが許せなかった。そしてこんどは向うを辱しめてやろうと、彼女を泣かしてやろうと、たまらない願望に駆られた。彼はその方法を種々考えたが、一つも思いつかなかった。彼女がいつか自分に注意を向けようとは、どこから見ても考えられなかった。しかし心を安めるために、彼は万事が願いどおりになるものと仮定した。で彼は、自分がたいへん強いりっぱな者になったこととし、同時に、彼女が自分に恋をしてるときめた。そして彼は例の荒唐無稽《こうとうむけい》な話を一つみずから語り始めた。彼はついにそういう話を、現実よりももっと実際なことのように考えてるのだった。
彼女は恋々《れんれん》の情にたまらなくなっていた。しかし彼は彼女を軽蔑《けいべつ》していた。彼がその家の前を通ると、彼女は窓掛の後ろに隠れて彼が通るのを眺めた。彼は見られてることを知っていたが、それを気にも止めないふりをして、快活に口をきいていた。それからまた彼女の悶《もだ》えを増させるために、彼は故国を去って遠くへ旅した。彼は大きな手柄をたてた。――このところで彼は、祖父の武勇|譚《だん》から取って来たいくつかの条《くだり》を自分の話に織り込んだ。――彼女はその間に、悶々《もんもん》のあまりに病気になった。彼女の母親が、あの傲慢《ごうまん》な夫人が、彼のところへ来て懇願した。「私のかわいそうな娘は死にかかっています。お願いですから、来てください!」彼は行ってやった。彼女は寝ついていた。顔は蒼《あお》ざめて肉が落ちていた。彼女は彼に両腕を差出した。口をきくことはできなか
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