すどころか、すっかり落胆しきってしまった。そして酒場の仲間らとともに競争者の悪口を言いながら、せめてもの意趣晴しをしていた。彼は馬鹿げた高慢心のあまり、父の後を継いで楽長になれることと期待していた。ところが他人がそれに任命された。彼は迫害をこうむったような気がして、埋もれた天才らしい様子をした。老クラフトが受けていた尊敬のおかげで、管弦楽団《オーケストラ》のヴァイオリニストの地位は保ちえたが、しだいに、町の家庭教授の口をたいてい失ってしまった。そしてこの打撃は、彼の自尊心にとって最も痛切なものだったし、また彼の財布にとってはさらに痛切なものだった。数年来、種々な不幸の後を受けて、生活の方が非常に切りつまっていた。豊かな生活を知った彼に、困窮が見舞って来て、日に日に大きくなっていった。メルキオルはその方面のことは知らん顔をして、服装《みなり》や快楽のための出費を一銭も減じなかった。
 彼は悪い男ではなかった。否それよりいっそう始末におえないことかもしれないが、半ば善良な男で、弱者で、なんの策略ももたず、意気地もなく、そのうえ、善良な父であり、善良な息子であり、善良な夫であり、善良な人間であると、自信していた。もしそういうものでありうるためには、容易に動かされやすい軽率な親切心と、自己の一部分として家族の者らを愛する動物的情愛とで十分であるとするならば、彼はおそらく実際にそういう善良な者であったろう。また彼はひどい個人主義者であるともいえなかった。個人主義者たるには十分の性格をそなえていなかった。彼は実になんでもない男であった。そしてかかるなんでもない男こそ、人生においては恐るべきものである。彼らは空中に放置された重体のように、ただ下に落ちようとする。どうしても落ちざるをえない。そして自分とともにいるものをみな、いっしょに引きずって落ちてゆく。

 小さなクリストフが周囲の出来事を了解し始めたのは、家庭の状態が最も困難になってる時にであった。
 彼はもう一人息子ではなかった。メルキオルは行末どうなるか気にもかけずに、毎年妻に子供を産ました。二人の子供は幼くて死んだ。他の二人は三歳と四歳とになっていた。メルキオルはいっさい子供のことをかまわなかった。でルイザは、やむをえない用で出かける時には、もう六歳になってるクリストフに二人の子供を頼んだ。
 クリストフにはそれがつらかった。なぜならその務めのために、野原の楽しい午後の散歩をやめなければならなかった。しかしまた彼は、一人前に取扱われるのが得意になって、りっぱにその仕事をやってのけた。子供に種々なことをしてみせて、できるかぎり面白がらせた。母親がするのを聞いたとおりに真似《まね》て、子供たちに話しかけようとした。あるいはまた母親のを見たとおりに真似て、子供を代わる代わる腕に抱いてやった。小さな弟を胸から落とすまいとして、力いっぱいに抱きしめ、歯をくいしばりながらも、重いので腰がよく伸びなかった。子供たちはいつも抱かれたがって、決してあきることがなかった。そしてクリストフにもうできなくなると、いきなり泣き出してとめどがなかった。また彼は子供たちにひどく痛い目に会わされて、しばしば途方にくれた。子供たちはよごれていて、母親らしい世話もしてやらなければならなかった。クリストフはどうしていいか分らなかった。子供たちは彼にたいして勝手なまねをした。彼も時とするとその頬辺《ほおぺた》を打ちたくなった。けれどもまた考え直した、「小さいんだ、分らないんだ。」そしてつねられたり打たれたり苦しめられたりするのに、寛大に身を任していた。エルンストはつまらないことにもわめきたてた。じだんだふんだり、怒って転がり回ったりした。神経質な子供だった。でルイザは、彼の気に障《さわ》ることをしてはいけないと、クリストフに言いつけておいた。ロドルフの方は猿《さる》知恵のたちだった。クリストフがエルンストを抱いてる隙《すき》につけこんでは、いつもその後ろに回ってあらんかぎりの悪戯《いたずら》をした。玩具《おもちゃ》を壊《こわ》し、水をひっくり返し、着物をよごし、また戸棚の中をかき回しては皿を落したりした。
 そういうふうだったから、ルイザは家にもどってくると、クリストフをねぎらいもしないで、乱雑なありさまを見ながら、叱《しか》りつけはしないが顔を曇らして、彼に言った。
「困った子だね、お守《も》りが下手《へた》で。」
 クリストフは面目を失って、しみじみと心悲しかった。

 ルイザはわずかな金の儲《もう》け口も見逃さなかったので、婚礼の御馳走《ごちそう》だの洗礼の御馳走だのという特別の場合には、やはりつづけて料理女として雇われていった。メルキオルはそれを少しも知らないようなふりを装っていた。なぜなら自尊心を傷つけられることだったから。しかし彼女が自分に内密でやってることについては、別に気を悪くしてはいなかった。小さなクリストフの方はまだ、生活の困難ということが少しも分らなかった。自分の意志の拘束となるようにはっきり感ぜられるものは、ただ両親の意志のみであった。しかもそれとて、彼はほとんど思いどおりに放任されていたので、さほど厄介なものではなかった。彼はなんでも思いどおりのことができるためには、ただ大人になることをしか望んではいなかった。人が一歩ごとにぶっつかるあらゆる障害を、彼は想像だもしてはいなかった。とくに大人である自分の両親さえ万事が思いどおりにやれるものではないということを、彼はかつて考えもしなかった。人間のうちには命令する者と命令される者とがあるということを、そしてまた、家の人たちも自分もともに前者に属するのではないということを、彼が初めて瞥見《べっけん》した日、彼の心身は激しく猛《たけ》りたった。それこそ彼の生涯の最初の危機であった。
 その日、母は彼にいちばん綺麗《きれい》な服を着せてくれた。もらい物の古着ではあったが、ルイザが丹念に手ぎわよく仕立直したものだった。彼は言われたとおり、母をその働いてる家へ尋ねていった。ただ一人ではいってゆくことを考えると気後《きおく》れがした。一人の給仕が玄関にぶらぶらしていた。彼は子供を引止めて、何しに来たかといたわるような調子で尋ねた。クリストフは顔を赤くして、「クラフト夫人」――言いつけられたとおりの言葉を使って――に会いに来たのだと口籠《くちごも》りながら答えた。
「クラフト夫人だって? なんの用だい、クラフト夫人に?」と給仕は夫人という言葉に皮肉な力をこめて言いつづけた。「お前のお母さんなのかい。そこを上っておいで。廊下の奥の料理場へ行けば、ルイザに会えるよ。」
 彼はますます顔を赤らめながら歩いて行った。母がなれなれしくルイザと呼ばれたのを聞いてきまりが悪かった。一種の屈辱を感じた。もうそこを逃げ出して、親しい河岸に駆けてゆき、いつもみずからいろんな話を考えるあの藪《やぶ》の後ろに、はいり込んでしまいたいような気もした。
 料理場へ行くと、彼は他の多くの召使どもの中にはいり込んだ。皆は騒々しく囃《はや》したてて彼を迎えた。奥の方の竈《かまど》のそばで、母はやさしいまた多少困ったような様子で、彼に微笑《ほほえ》みかけていた。彼はそこへ駆け寄って、母の膝《ひざ》にすがりついた。母は白い胸掛をつけて、木の匙《さじ》をもっていた。そしてまず、顔を上げて皆に見せるがいいとか、そこにいる人たちに一々今日はと言って握手を求めなさいと言って、ますます彼を困惑さした。彼はそれを承知しなかった。壁の方を向いて、顔を腕の中に隠してしまった。しかしだんだん勇気が出て来て、笑いを含んだ輝いた眼でちょっと覗《のぞ》いては、人に見られるたびにまた首を縮めた。そういうふうにして彼はひそかに人々の様子を窺《うかが》った。母は彼がこれまで見かけたこともないほど、忙しそうなまた厳《おごそ》かな様子をしていた。鍋《なべ》から鍋へと往《い》ったり来たりして、味をみ、意見を述べ、確信ある調子で料理の法を説明していた。普通《なみ》の料理女はそれを畏《かしこま》って聞いていた。母がどんなに人々から尊敬されてるかを見て、また、光り輝いてる金や銅のりっぱな器具で飾られたこの美しい室の中で、母がどんな役目を演じてるかを見て、子供の心は得意の情にみちあふれた。
 突然、すべての話し声がやんだ。扉《とびら》が開いた。一人のりっぱな夫人が、硬《かた》い衣摺《きぬず》れの音をたててはいって来た。彼女は疑り深い眼付であたりを見回した。もう若くはなかったが、まだ袖《そで》の広い派手な長衣を着ていた。そして物にさわらないように片手で裳裾《もすそ》を引上げていた。それでもやはり竈《かまど》のそばにやって来て、皿《さら》の中を覗《のぞ》き込んだり、また味をみまでした。少し手を上げると、袖がまくれ落ちて、肱《ひじ》の上まで素肌《すはだ》だった。クリストフはそれを見て、見苦しいようなまた猥《みだ》らなような気がした。いかに冷やかなぞんざいな調子で彼女はルイザに口をきいたか、そしてルイザはいかにへり下った調子で彼女に答えたか! クリストフはそれに驚かされた。彼は見つからないように片隅に身を潜めたが、なんの役にもたたなかった。その小さな児《こ》はだれかと夫人は尋ねた。ルイザはやって来て、彼をとらえて、御覧に入れようとした。顔を隠させまいとして両手を押えた。彼は身をもがいて逃げ出したかったが、こんどはどうしても逆らえないように本能的に感じた。夫人は子供のあわてた顔付を眺めた。そしてすでに母親としての彼女の最初の素振りは、彼にやさしく微笑《ほほえ》みかけることだった。しかし彼女はまたすぐに目上らしい様子をして、行状だの信仰だのについて種々な問いをかけた。彼は少しも返辞をしなかった。彼女はまた彼の着物がよく似合うかどうかを眺めた。ルイザは急いで着物がりっぱになったのをお目にかけた。そして襞《ひだ》を伸すために上着をやたらに引張った。クリストフは非常に窮屈になって声をたてたいほどだった。なぜ母親がお礼を言ってるのか、彼には少しも分らなかった。
 夫人は彼の手を取って、自分の子供たちのところに連れて行きたいと言い出した。クリストフは困り切った眼付で母をちらと眺めた。しかし母はいかにも慇懃《いんぎん》な様子で御主人に笑顔を見せていたので、もうなんの希望もないことを彼は見てとった。そして彼は屠所《としょ》に牽《ひ》かるる羊のように、夫人の案内に従っていった。
 二人は庭にやって行った。そこには無愛相な二人の子供がいた。クリストフとほぼ同じ年ごろの男の子と女の子とだったが、何かたがいに気を悪くしてるらしかった。ところがクリストフが来たのでそれがまぎれた。彼らは近寄って来て新参者をじろじろ眺めた。クリストフは夫人から置きざりにされて、径《みち》につっ立ったまま、眼を挙げることもしかねた。二人の子供は数歩のところにじっと立って、彼を頭から足先まで見回し、肱《ひじ》でつっつき合って、嘲《あざけ》っていた。がついに思いきって、なんという名前か、どこから来たか、父親は何をしているか、などと尋ねだした。クリストフは堅くなって何にも答えなかった。彼は涙が出るほど気圧《けお》されていた。とくに、金髪を編んで下げ、短い裳衣《しょうい》をつけ、脛《すね》を露《あら》わしてる少女のために、ひどく気圧されていた。
 彼らは遊び始めた。そしてクリストフが少し安心しだした時、男の子は彼の前に立ちはだかって、彼の上着に手をふれながら言った。
「やあ、これは僕んだ!」
 クリストフには訳が分らなかった。自分の上着が他人のだというその言葉に憤慨して、彼は強く頭を振って打消した。
「僕はよく知ってる。」と男の子は言った。「僕の古い紺《こん》の上着だ。そら汚点《しみ》がある。」
 そして彼は汚点のところを指でつっついた。それからなお検査をつづけて、クリストフの足を調べ、靴《くつ》の先がなんで繕ってあるかと尋ねた。クリストフは真赤になった。女の子は口をとがらして、貧乏人の子だと
前へ 次へ
全23ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング