ったが、彼の手をとって、涙を流しながらそれに接吻《せっぷん》した。すると彼は、いかにもりっぱな親切とやさしさとを籠《こ》めて彼女を眺めてやった。病気は癒《なお》ると言いきかして、愛せられることを承諾してやった。そこまで話が進んでくると、その面白さを長引かし、その態度や言葉を幾度もくり返しながら、みずから楽しんでいるうちに、眠気がさして来た。そして彼は慰安を得て眠りに入った。
しかし彼がふたたび眼を開いた時は、すっかり夜が明け放たれていた。そしてその日の光はもはや、前日の朝のように気楽に輝いてはいなかった。世の中の何かが変化していた。クリストフは不正というものを知っていた。
家ではひどく生活に困窮することが時々あった。それがしだいに頻繁《ひんぱん》になってきた。そういう日はたいへん粗末な食事だった。クリストフほどそれによく気づく者はだれもなかった。父には何も分らなかった。彼は最初に食物|皿《ざら》から自分の分を取ったし、いつも十分に取っていた。彼は騒々しく話したて、自分の言葉にみずから大笑いをした。そして彼が食物を取ってる間、彼の様子を見守りながら強《し》いて笑顔《えがお》を見せてる妻の眼付も、彼の眼には止まらなかった。食物皿は、彼が次に回す時には、もう半ば空《から》になっていた。ルイザは小さな子供たちに食物をよそってやった、一人に馬鈴薯《ばれいしょ》二つずつを。クリストフの番になると、その三つしか皿には残っていないことがしばしばで、しかも母はまだ取っていなかった。彼はそれを前もって知っていた。自分に回ってくる前に馬鈴薯を数えておいた。そこで彼は勇気を出して、何気ない様子で言った。
「一つでたくさんだよ、お母さん。」
彼女は少し気をもんでいた。
「二つになさい、皆《みんな》と同じに。」
「いいえ、ほんとに一つでいいよ。」
「お腹《なか》がすいていないのかい。」
「ええ、あんまりすいてはいない。」
しかし彼女もまた一つきり取らなかった。そして彼らは丁寧《ていねい》に皮をむき、ごく小さく切り、できるだけゆっくり食べようとした。母は彼の方を窺《うかが》っていた。彼が食べてしまうと言った。
「さあ、それをお取りよ!」
「いいよ、お母さん。」
「では加減でも悪いの?」
「悪かない。でもたくさん食べたよ。」
父はよく彼の気むずかしいのを叱《しか》って、残りの馬鈴薯を自分で取ってしまった。しかしクリストフはもうその手に乗らなかった。彼はそれを自分の皿に入れて、弟のエルンストのために取っておいた。エルンストはいつも貪欲《どんよく》で、食事の初めからその馬鈴薯を横目で窺《うかが》い、しまいにはねだり出した。
「食べないの? そんなら僕におくれよ、ねえ、クリストフ。」
ああいかほどクリストフは、父を憎く思ったことか! 父が自分たちにたいして少しの思いやりもなく、自分たちの分まで食べて知らないでいるのを、いかほど恨めしく思ったことか! 彼は非常に腹が空いていたので、父を憎んだし、そう口に出して言ってやりたいほどだった。しかし彼は高慢にも、みずから自活しないうちはその権利をもたないと考えていた。父が奪い取ったそのパンも、父が稼《かせ》ぎ出したものだった。彼自身はなんの役にもたっていなかった。彼は皆にとっては厄介《やっかい》者だった。口をきく権利はなかった。やがては彼も口をきけるだろう――もしそれまで生きてたら。しかしああ、それ以前にはたとい空腹で死んでも……。
彼は他の子供よりもいっそう強く、そういう残酷な節食に苦しんでいた。彼の強健な胃袋は拷問にかけられたがようだった。時とすると、そのために身体が震え、頭が痛んできた。胸に穴があいて、それがぐるぐる回り、錐《きり》をもみ込むように大きくなっていった。しかし彼は我慢した。母から見られてるのを感じて、平気なふうを装った。ルイザは、その小さな子が他の者に多く食べさせるために、みずから食を節してることに、おぼろげながら気がついて心を痛めた。彼女はその考えをしりぞけたが、しかしいつもまたそこに心がもどってきた。彼女はそれを明らかにすることをなしかねた、ほんとうかどうかとクリスフトに尋ねかねた。なぜなら、もしほんとうにそうだったら、どうしていいか分らなかったから。彼女自身も子供のおりから、食物の欠乏には慣れていた。別に仕方もない場合には、愚痴をこぼしたとてなんになろう。実際のところ彼女は、自分の弱い体質や小食から推して、子供が自分より多く苦しんでるに違いないとは、夢にも思いつかなかった。彼女は彼になんとも言わなかった。しかし一、二度、他の子供たちは往来に、メルキオルは用向に、皆出ていってしまった時、そこに残っていてくれと彼女は長男に頼んで、ちょっと用を手伝わしたことがあった。クリストフは糸の玉を持ち、彼女はその糸を巻いていた。すると突然、彼女は何もかも投げ出して、夢中に彼を引き寄せた。彼はもうたいへん重くなっていたけれど、彼女は彼を膝《ひざ》にのせて、抱きしめた。彼は彼女の首に強く抱きついた。そして彼らは、絶望に陥ったがようにたがいに抱擁しながら、二人とも涙を流した。
「かわいそうに!……」
「お母さん、ああお母さん!……」
彼らはそれ以上何も言わなかった。しかしたがいに了解し合っていた。
クリストフはかなり長い間、父が酒飲みであることに気付かなかった。メルキオルの放縦は、少なくとも初めのうちはある限度を越えなかった。それは決してひどいものではなかった。むしろ非常な上|機嫌《きげん》の発作となって現われていた。彼はテーブルをたたきながら、いく時間もつづけて、愚にもつかぬことを述べたてたり、大声で歌ったりした。時とすると、ルイザや子供たちといっしょにどうしても踊るといってきかなかった。クリストフは母が悲しい様子をしてるのをよく見てとった。彼女はわきに引込んで、俯向《うつむ》いて仕事をしていた。酔っ払いを見まいとしていた。そして顔が赤くなるほど露骨な戯談《じょうだん》を言いかけられると、それを黙らせようとして穏かに努めた。しかしクリストフにはその理由が分らなかった。彼は陽気なことを非常に望んでいたので、父がもどってきて騒ぎたてるのを楽しみとしていた。家の中は陰気だった。そしてそんな馬鹿騒ぎは彼にとって一種の気安めだった。メルキオルのおどけた身振りや馬鹿げた戯れを、彼は心から笑い興じた。いっしょに歌ったり踊ったりした。母が不機嫌《ふきげん》な声でそれを止めさせるのは、不都合なことだと思っていた。父がすることだから、どうして悪いことがあろう? 彼の小さな観察力は常に覚めていて、見たことは何一つ忘れなかったので、正理にたいする彼の幼い一徹な本能に合致しない多くのものを、父の行ないのうちに認めてはいたけれども、なお彼はやはり父を賛美していた。それは子供のうちにある強い欲求である。確かに永遠の自愛の一つの形であろう。人はおのれの欲望を実現しおのれの高慢心を満足させるにはあまり自分が弱いことを認める時、それらのものを他に移しすえる、子供はその両親の上に、人生に敗れた大人はその子供らの上に。かく希望をかけられた人々は、夢想されたとおりの者となっており、あるいは夢想されたとおりの者となるであろう、その選手と、その復讐《ふくしゅう》者と、なっておりあるいはなるであろう。そして、おのれのためにするかかる傲慢《ごうまん》な隠退のうちには、愛と利己心とが驚くばかりの力とやさしみとをもって相混和している。でクリストフも、父にたいするあらゆる不満をうち忘れて、父を賛美する理由を見出そうと努めていた。そして父の身体つき、その頑丈《がんじょう》な腕、その声、その笑い、その快活、などを彼は賛美した。父の妙技が賛《ほ》められるのを聞く時、あるいはメルキオル自身で人から受けた賛辞を誇張して述べたてる時、彼は得意の情に顔を輝かした。彼は父のおおげさな自慢話をほんとうだと信じた。そして天才として、祖父から聞いた英雄の一人として、父を眺めていた。
ところがある晩、七時ごろ、彼は一人で家に残っていた。弟たちはジャン・ミシェルと散歩に出ていた。ルイザは河でシャツを洗っていた。扉が開いてメルキオルが突然はいってきた。帽子もかぶらず、胸ははだけていた。一種の跳踊《はねおどり》をやってはいって来て、テーブルの前の椅子《いす》にどっかと腰を落とした。クリストフはまた例の茶番だと思って笑い出した。そしてそばに寄っていった。しかし近寄って眺めてみると、もう笑う気も起こらなかった。メルキオルは腰掛けたまま、両腕をだらりと垂れ、眼を瞬《またた》きながら茫然《ぼうぜん》と前方を見つめていた。顔は真赤であった。口は開いていた。時々馬鹿げた喉声《のどごえ》が口から洩《も》れていた。クリストフはびっくりした。初めは父がふざけてるのだと思った。しかしじっと身動きもしないでいるのを見ると、急に恐しくなった。
「お父さん、お父さん!」と彼は叫んだ。
メルキオルはなお牝鶏《めんどり》のように喉を鳴らしていた。クリストフは自棄《やけ》に彼の腕をとらえ、力の限り揺った。
「お父さん、ねえお父さん、返辞をして! どうぞ。」
メルキオルの身体は、柔い物体のようにゆらゆらして、危く倒れかかった。頭はクリストフの頭の方へ傾いた。そして支離滅裂な腹だちまぎれの声をやたらにたてながら、クリストフを見つめた。その昏迷《こんめい》した眼に自分の眼を見合せると、クリストフは物狂おしい恐怖にとらえられた。彼は室の奥に逃げ出し、寝台の前に膝《ひざ》を折って、夜具の中に顔を埋めた。二人は長い間そのままでいた。メルキオルは嘲笑《あざわら》いながら、椅子の上に重々しく身を揺っていた。クリストフはそれを聞くまいとして耳をふさいで、震えていた。心のうちには名状しがたい感情が乱れた。あたかもだれかが死んだかのように、尊敬してる大事なだれかが死んだかのように、恐しい混乱、恐怖、苦悶《くもん》、であった。
だれも帰って来なかった。二人きりであった。夜になっていた。クリストフの恐怖は一刻ごとに増していった。彼は耳を傾けざるをえなかったが、もう父の声とも覚えないその声を聞くと、全身の血が凍るかと思われた。一高一低の掛時計の音が、父の狂気じみた饒舌《おしゃべり》の調子をとっていた。彼はもうたまらなくなって、逃げ出そうとした。しかし出て行くには、父の前を通らなければならなかった。あの眼付をまた見るかと思うだけでも、クリストフは震え上がった。見ただけで死ぬかも知れないような気がした。彼は四つ這《ば》いになって、室の扉のところまで忍んで行こうとした。息もつかず、あたりに目もくれず、メルキオルがちょっとでも動くと止まった。酔っ払いの両足がテーブルの下に見えていた。その片足は震えていた。クリストフは扉のところまでたどりついた。無器用な片手でそのハンドルにすがりついた。しかし狼狽《ろうばい》のあまりまたそれを放した。ハンドルはがたりと締まった。メルキオルは見ようとしてふり向いた。すると彼がのっかって身を揺っていた椅子《いす》は平均を失った。彼は大きな音をたてて下に転がった。クリストフはおびえてしまって、逃げ出す力もなかった。彼は壁にしがみついて、足下に長々と横たわってる父を眺めた。そして助けを呼んだ。
メルキオルは転げ落ちたので少し酔がさめた。そしてその悪戯《いたずら》を働いた椅子を、ののしったり、侮辱したり、拳固《げんこ》で殴りつけたりした後、いたずらに起き上がろうとつとめた後、ついにテーブルに背中でよりかかって上半身をすえた。そしてあたりの様子が眼にはいった。彼は泣いてるクリストフを見た。そして彼を呼んだ。クリストフは逃げたかったが、身動きもできなかった。メルキオルはまた呼んだ。それでも子供がやって来ないので、怒ってののしった。クリストフは手足を震わせながら近づいてきた。メルキオルはそれを自分の方へ引寄せて、膝《ひざ》の上にすわらせた。そしてまず子供の耳を引張りながら、呂律《ろれつ》の回らぬ早口で、子
前へ
次へ
全23ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング