よく知ってるとおり、わしはお前を恨んだこともないし、お前と知り合ってからはいつも好意をもっていた。それに、一度こうときまってしまえば、もう後もどりはできない。あとはただ義務を尽すことばかりだ、正直に。」
彼は元の席へもどって腰掛け、ちょっと間をおいて、それから、いつも自分の格言を口にする時のような厳《いかめ》しさで言った。
「人生で第一のことは、おのれの義務を尽くすことだ。」
彼は抗議を待ち受け、火の上に唾《つば》をした。それから、母親も子供もなんら異論をもち出さなかったので、なお言葉をつづけたく思った――が、口をつぐんだ。
彼らはもう一言も口をきかなかった。ジャン・ミシェルは暖炉のそばで、ルイザは寝床にすわって、二人とも悲しげに夢想していた。老人はああは言ったものの、息子の結婚のことを苦々《にがにが》しげに考えていた。ルイザの方も同じくそのことを考えていた、そしてみずから非難すべき点は何もなかったけれど、それでも気がとがめていた。
ジャン・ミシェルの子メルキオル・クラフトと結婚した時、彼女は女中であった。でその結婚にはだれも驚いたが、とくに彼女自身が驚いた。クラフト家には財産はなかったが、約半世紀前に老人が居を定めたそのライン河畔の小さな町では、かなり尊敬されていた。彼らは父子代々の音楽家で、その地方、ケルンとマンハイム間では、音楽家仲間に名が知れわたっていた。メルキオルは宮廷劇場のヴァイオリニストであった。ジャン・ミシェルは近頃まで大公爵の演奏会を指揮していた。でこの老人はメルキオルの結婚に深い屈辱を感じた。彼は息子に大きな希望をかけていて、自分自身ではなれなかったけれども、息子の方は高名な人物になしたいと思っていた。ところがこの無謀な結婚は、その望みを打ち壊《こわ》してしまった。それで最初のうちは盛んに怒鳴りたて、メルキオルとルイザとをののしりちらした。しかし根が正直な人だけに、嫁の気心をよく知ってくると、すぐに彼女を許してやった。そして父親としての愛情をさえ心にいだくようになった。がその愛情はたいてい冷たい素振りとなって現われていた。
メルキオルが何に駆《か》られてそういう結婚をしたのか、だれも了解することができなかった――だれよりもメルキオル自身に訳が分らなかった。確かにルイザの美貌《びぼう》のせいではなかった。彼女は少しも人を惑わすような点を
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