ともに等しく赤ん坊だったから。
祖父が勇壮な話の中途に、心に大切にしまってる議論の一つをはさむ時には、クリストフはあまり嬉《うれ》しくなかった。それはおもに道徳上の意見であって、正しくはあるがやや陳腐《ちんぷ》な一つの思想にたいていつづめられるようなものだった、たとえば、「温和は過激に優《まさ》る、」――「名誉は生命よりも貴し、」――「邪悪なるは善良なるに如《し》かず、」などと。――そしてただ、それよりもずっと錯雑してるだけだった。祖父は自分の幼い聴手の批評を恐れてはいなかった。そしていつも心ゆくかぎりおおげさな調子で口をきいた。少しもはばからずに、同じ文句をくり返したり、中途で言葉を途切らしたり、また議論の途中でまごつく時には、思想の破綻《はたん》をふさごうとして、なんでも頭に浮かぶことをでたらめに言ったりした。そして言葉をいっそう力強くなすためには、その意味と矛盾する身振りをさえ添えた。子供はごくかしこまって耳を傾けていた。そして、祖父は非常に雄弁だが多少退屈だと、彼は考えていた。
二人とも好んで、ヨーロッパを征服したあのコルシカの偉人に関する伝説的な物語に、何度も立ちもどっていった。祖父は彼を知っていた。かつてはも少しで彼と矛《ほこ》を交ゆるところだった。しかし祖父は敵の偉さをも認めることができた。幾度となくそれを口にした。あれほどの人物がラインのこちらに生まれるなら、片腕くらいくれてやっても惜しまなかったろう。しかし運命はそうは許さなかった。祖父は彼を賛美していたが、彼と戦った――言い換えれば、まさに彼と戦おうとしたのだった。けれども、ナポレオンがすでに十里ばかりの距離に迫ってき、それと会戦を期して進軍していた時、その小軍勢は突然|狼狽《ろうばい》し出して、森の中に潰走《かいそう》してしまった。「謀叛《むほん》だ!」と叫びながらだれも皆逃げ出してしまった。逃走者を引きとめようとしたが駄目《だめ》だった、と祖父は話してきかした。祖父は彼らの前に身を投げ出して、おどかしたり涙を流して説いたりした。けれども逃走者の人波に巻き込まれて、翌日になると、戦場――と祖父は潰走の場所を呼んでいた――から驚くほど遠くに来てしまっていたのである。それでも、クリストフはいつも急《せ》き込んで、その英雄の勳功談に祖父を引きもどした。そして世界じゅうを馬蹄《ばてい》にふみにじった
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