驚くべき話に魅せられてしまった。眼の前に浮かび出すその英雄は、無数の人民を後ろに従えていた。人民らは敬愛の叫びを発していて、彼の合図一つで群がりたって敵に飛びかかってゆき、敵はいつも敗走した。それはまったくお伽噺《とぎばなし》と同じだった。祖父は話を面白くするために、余計なものまで少しつけ加えた。その英雄はスペインを征服していた。許すことのできないイギリスをもほとんど征服していた。
 時とすると老クラフトは、その熱烈な物語の中で、この英雄にたいする憤慨の語を交えることもあった。愛国の精神が彼のうちに目覚めていた。そしておそらく、イエナの戦《いくさ》の話よりも、皇帝の敗北の条《くだり》においていっそうそうであったろう。彼は言葉を途切らして、ライン河に拳固《げんこ》をさしつけ、軽侮の様子で唾《つば》を吐き、上品な罵言《ばげん》――他の下等な罵言を吐くほど彼は自分を卑しくしなかった――を発した。悪人、猛獣、不徳漢、などとその英雄を呼んだ。そしてかかる言葉がもし、子供の精神の中に正義の観念をうち立てるのを目的としていたのなら、それは的はずれのものであったというべきである。なぜなら、子供の論理は次のように結論しやすかったから。「もしあんな偉い人が徳義をもっていなかったとするならば、徳義などということは大したものではない、最も大事なのは、偉い人になるということだ。」しかし老人は、自分のそばにようやく一人立ちをしかけてる幼い思想については、露ほどの察しもなかった。
 二人はそれらの素敵な話をめいめい自己流に考え耽《ふけ》りながら、いずれも黙っていた。――ただ途中で祖父が、自分を贔屓《ひいき》にしてくれてる上流のだれかが散歩してるのに出会うと、そうはいかなかった。祖父はいつまでも立止って、低くお辞儀をし、やたらに追従《ついしょう》的なお世辞を並べたてた。子供はそれを見て、なぜともなく顔を赤くした。しかし祖父は、既成権力と「成上り者」とにたいしては、心の底に尊敬の念をいだいていた。話の主人公たる英雄らを彼があれほど好きだったのは、よく成上りえた人物を、他の者より高い地位に達しえた人物を、彼らのうちに見出していたせいかもしれなかった。
 ごく暑い時には、老クラフトはよく木蔭にすわった。そして間もなく仮睡することが多かった。するとクリストフは祖父のそばで、ぐらぐらする石積の横の方や、標石
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