っと起こるだろうと思い込んでいた。彼は一匹の蟋蟀《こおろぎ》を捜し出して、それを馬にしようとした。蟋蟀の背中にそっと杖をあてて、一定の呪文《じゅもん》を唱えた。虫は逃げ出した。彼はその行く手をさえぎった。しばらくすると、彼は虫のそばにはらばいに寝転んで、じっと眺めた。もう魔法使の役目を忘れてしまって、そのあわれな虫を仰向《あおむけ》にひっくり返しては、それがもがき苦しむのに笑い興じた。
彼は自分の魔法杖に古糸を付けることを考えだした。彼は真面目《まじめ》くさってそれを河の中に投げ込み、魚が食いに来るのを待った。魚というものは普通|餌《えさ》も鈎《かぎ》もない糸を食うものではないということは、彼もよく知っていたけれど、しかし一度くらいは、自分のために、魚が例外なことをするかもしれないと思っていた。そしてすっかり自惚《うぬぼ》れのあまり、ついに溝板《みぞいた》の割目から杖を差入れて、往来の中で釣《つり》をするまでになった。心を躍らせて時々その杖を引上げながら、こんどは糸が前より重いと考えたり、祖父から聞いた話にあったように、何かの宝を引き上げるのではないかと想像したりした……。
そういうことをして遊んでる最中に、不思議な夢心地とまったくの忘却とに陥る瞬間があった。周囲のすべてのものは消え失せてしまって、もう自分が何をしているかをも知らず、自分自身をも忘れはてた。よくそんなことが不意に彼を襲った。歩いてる時、階段を上りかけてる時、突然空虚が開けてきた。彼はもう何にも考えていないようだった。そして我に返ってみると、前と同じ場所に、薄暗い階段の中ほどに、自分を見出して呆然《ぼうぜん》としてしまった。それはあたかも、一つの生涯を過してしまったようなものだった――階段の二、三段ばかりの場所で。
祖父はしばしば夕方の散歩に彼を連れていった。子供は祖父に手を引かれて、小股《こまた》に足を早めながら並んで歩いた。彼らはいつも、快い強い匂いのする耕作地を横ぎって、小道を通っていった。蟋蟀《こおろぎ》が鳴いていた。道にはだかって横顔を見せてる大型の烏《からす》が、遠くから二人の来るのを眺めていたが、間近になると重々しく飛び去った。
祖父はよく咳《せき》払いをした。クリストフはその意味をよく知っていた。老人は何か話を聞かせたくてたまらなかったが、まず子供の方からせがんでもらいたかっ
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