たちが無頓着《むとんじゃく》に室内を通るのに、彼は驚きまた多少気を悪くしている。彼は裳衣《しょうい》の襞《ひだ》をつかまえて母親を引き止める。「このとおり水だよ! 橋を通らねばいけないよ。」――橋というのは、菱形の赤い床石の間につづいてる小溝《こみぞ》である。――母親は彼の言葉を耳にもかけないで通ってゆく。ちょうど戯曲作家が自作の開演中に勝手な話をしてる観客を見る時のように、彼はじれている。
 次の瞬間には、彼はもうそんなことは考えていない。床石はもう海ではない。彼は長々と床石の上にねそべって、石の上に頤をつけ、自分で作り出した音楽を口ずさみ、涎《よだれ》を垂らしながら真面目《まじめ》くさって親指を舐《ねぶ》っている。床石の間にある割目に見入っている。菱形のその列が人の顔のようにしかめる。眼にもつかないような小さな穴が、大きくなって谷になる。そのまわりにはいくつも山がある。一匹の草鞋虫《わらじむし》がはっている。それが象のように大きい。雷が落ちても子供の耳にははいらないだろう。
 だれも彼にかまってくれない。彼はだれにも用はない。靴拭蓆《くつふきむしろ》の舟、奇怪な獣のいる床石《ゆかいし》の洞窟《どうくつ》、そんなものさえもうなくてすむ。自分の身体だけでたくさんだ。身体はなんという興味の泉だろう! 彼は自分の爪《つめ》を眺めて大笑いしながら、いく時間も過す。爪はそれぞれ違った顔付をしていて、知ってる人たちに似かよっている。彼はそれらを、いっしょに話さしたり、踊らしたり、殴《なぐ》り合わしたりする。――それからこんどは身体の他の部分!……彼は自分に属するものを残らず検査しつづける。なんとたくさんの驚くべきものがあることだろう! 不思議なものが実にたくさんある。彼は珍らしそうにそれらのものに見とれる。
 時々、そういうところを人に見つけられて、彼は手荒く抱きとられた。

 時おり彼は、母親が向うを向いてる隙《すき》に乗じて、家から外にぬけ出す。初めのうちは、後から追いかけられてつかまってしまう。後になると、あまり遠くへさえ行かなければ、一人で出かけるままに放っておかれる。彼の家は町はずれにある。すぐそばから野原がつづいている。彼は窓が見える間は、時々片足で飛びながら、ちょこちょこと足をふみしめて、ちっとも立止まらないで歩いてゆく。けれども、道の曲り角を通りすぎると、藪《
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