ジャン・クリストフ
JEAN CHRISTOPHE

豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)隷属《れいぞく》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|閃《せん》

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(例)[#地から2字上げ]豊島与志雄
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 フランス大革命を頂点とする十八世紀より十九世紀への一大転向、隷属《れいぞく》的封建制度の瓦解と自由統一的立憲制度の成育とは、新世界をもたらすものと考えられていた。そして実際新世界は開かれた。しかしそこにはさらに本質的な暗雲が深くたちこめていた。その暗雲を払わんがためには、さらに十九世紀より二十世紀への一大転向が必要であった。視界を広げるの努力より、視界を清めるの努力となってきた。外皮を脱するの苦しみより、肉身を洗うの苦しみとなってきた。個性の確立への目覚めより、個性の尊厳への目覚めとなってきた。そしてかかる転向より発したところのものが、外にあっては社会改造の叫びとなり、内にあっては自由解放の叫びとなった。前者を翻訳すれば、吾人に光と空気とを与えよ! であり、後者を翻訳すれば、吾人の魂を解放せしめよ! である。
 吾人に光と空気とを与えよ!……社会の最大不公平の一は、実に光と空気との分前のそれである。人類は幾多の世紀を閲《けみ》するうちに、いつしかピラミッド形に積まれてしまった。そして高きにある者と低きにある者とを問わず、このピラミッドの内部に置かれた者こそ災《わざわい》である。そこにはもはや、永久の暗黒と窒息とがあるのみである。しかも外部に置かれた者すらも、内部より発散する腐爛《ふらん》の気に悩まされざるを得ない。されどもピラミッド全体は、長い間の惰性に引きずられて眠っている。ただ現在に固執している。死体のごときずっしりとした重さで糞《くそ》落着きに落着いている。萠《も》え出でんとする芽は、その重みの下に押し潰《つぶ》される。人の心は息がつけなくなる。ただ首垂《うなだ》れて、おのれの停滞した存在を見守るのほかはない。生命の力は萎微《いび》し、生きんとする意力は鈍ってくる。太陽の光と新鮮なる空気とを希望すること、それさえも忘れられてくる。
 吾人の魂を解放せしめよ!……形あるものはその形に固執《こしゅう》する。現在は未来の犠牲となることを拒《こば》む。ピラミッドは長くピラミッドたらんことを欲する。それを組立つるおのおのの石塊に向かって、一定の形を要求する。所要の形を具えないものがある時には、そこより崩壊を起こす憂いがあるからである。特殊の形を有するものは、全体の安寧を害するのゆえに容《い》れられない。かくてすべては都合よき形にゆがめられている。ゆがめられ平たくなされた面と面とが相接して、動きがとれなくなっている。そこにはもはや、個々の自由は存しないで、永遠の束縛と窮屈とが存するのみである。しかも最も恐るべきことは、かかる不自然な形に慣れきったあまり、それをもって自然な形と自認することである。おのれの魂をピラミッドの覊絆《きはん》より解放して自然の形に正すこと、それさえも忘れられてくる。
 ピラミッドをして平坦ならしめよ! これは自然そのものの声である。目覚めたる心の叫びである。それはあらゆる虚偽と停滞とに向かって飛びかかり、あらゆる仮面を引剥《ひきは》がずんばやまない。そこにはただ一筋の道あるのみである。真実を求めて赤裸の魂が突進する戦いの道である。善悪、美醜、正不正も、やがては第二義的のものにすぎなくなる。要は生命それ自身の自由なる飛躍である。目指すところは自然なる真実、道程は力強き反抗苦闘、心にいだくところは生命の愛。その理想は外部より魂を束縛する何かではなく、魂を自由に解放することそのことである。地上につながるる奴僕たることを脱して、自由の天空に翔《かけ》る太陽の子たらんとすることである。かくて、勝利の栄光をもっておのれの旗を彩《いろど》るか、あるいは傷つき斃《たお》れておのれの血潮でおのれの旗を染むるか、それは問題ではない。いう、人生は一編の悲劇なりと。
 人生をして悲劇たらしむるところのものは、過去と未来との断つべからざる連鎖であり、個々の上にかかる全体の圧力である。ピラミッドを組み立つるおのおのの石塊は、全体をピラミッドたらしめた深く遠い原因と、全体より来る重力とを、おのれ自身の上に荷《にな》っている。その二つを苦しむことによってしか、ピラミッドより脱することはできない。過去と全体とが有する虚偽を苦しむところにこそ、真の自覚が生まれてくる。自覚したる天才が、新たな未来を開拓せんとする時、現在を基点として一大転向を企図せんとする時、過去と全体とは彼の槓桿《こうかん》の上にのしかかってくる。その重みに堪え
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