、その重みの下に苦闘しつつ、よくそれを双腕に支え得るならば、彼の前には豁然《かつぜん》として新たな天地が開けてくるであろう。その時彼はすでに、新旧両時代にまたがって立っているのである。そして彼が一歩ふみ出す時、その肩の荷はもはや「新らしき日」となっているであろう。
虚偽と惰眠とに対して苦闘しつつ、真実へ向かって勇敢に突進する、解放せられたる自由なる魂、一人太陽の子たる孤独を味わいつつも、新旧両時代の橋梁《きょうりょう》たるべき魂、しかも生れながらにしてそうある魂、その魂の脈膊は、実にジャン・クリストフのうちに聴き取り得らるるのである。
ジャン・クリストフは、ライン河畔にあるドイツの小さな都市に生まれた。かなり人に知られた音楽家の貧しい家庭、老年と生活の苦労とに弱りはてた祖父、音楽上の天分をもちながら放蕩《ほうとう》に身をもち崩《くず》した父、賤《いや》しい育ちではあるが家計にたくみでまた優しい清い心を具えている母、一生を神に託して行商の旅に流浪してる叔父、そういう人々の間にジャン・クリストフは育っていった。幼年のころから早くも死の恐怖に襲われるほど強烈な感受性と、何物もはばむことのできないみちあふれた生命の力とを、彼は具えていた。その感受性は、眼に見えるものより眼に見えざるものへと探り入る時、独特な音楽の才となって現われた。その生命の力は、音楽の才をつちかいつつ、生命の自由な伸展をそこなうあらゆるものに、猛然と飛びかかっていった。赤裸の魂がいだくところのものは、生命の愛と真実の要求とであった。そしてジャン・クリストフがまず周囲に見出したものは、ドイツの虚偽であった。食傷し腐敗した多感性と、理想と実利との怪しい妥協より成る傲慢《ごうまん》性とであった。そこに彼の第一の反抗が始められた。そしておのれ一人の力でいかんともすべからざるを知った時、彼の眼は光の国たる南方のフランスに注がれた。しかし、フランスの輝かしい空気を呼吸することによって祖国の重苦しい空気を忘れんとした彼は、いわゆる光の国の主都パリーにおいて何を見出したか。それは腐爛《ふらん》した文明の臭気であった。根こぎにされた人々の無定見と、粉飾を事とする思想感情の淫蕩《いんとう》と、病的な個人主義とであった。かくて彼の第二の反抗は、このフランスの虚偽にたいしてなされた。そして欺瞞《ぎまん》に落ちた周囲の中に、一人離れて真理を追求しつつ敬虔《けいけん》なる努力をつづけている選まれたる人と、敗戦の苦痛によって鍛え上げられた一民族のうちに潜んでいる再興の力とを、彼は発見したのであったが、それは眼前を通過する一|閃《せん》の光明にすぎなかった。根深きところより射す光明ではあったが、それを覆《おお》う暗闇はなお深かった。そしてある日の暴動を機縁として、彼はかつておのれの祖国より逃れたと同じように、フランスの国外に逃亡しなければならなかった。
この間、彼は故国にある時またパリーにある時、幾多の恋愛を経験した。あるいはやさしい心の愛情であり、あるいは強い肉体の欲情であった。そしてそれらの迷執《めいしゅう》に、幾度か傷つきながらも、幾度かつまずきながらも、彼の魂はかえって鍛えられつちかわれた。真実と芸術とに奉仕する彼の心が、息苦しい異性の香りの方へ引きずられたのは、またそれらの事件から、憂鬱《ゆううつ》でなしに力を、精神の頽廃《たいはい》でなしに緊張を、たえず摂取していったのは、彼の強烈な生命の力のゆえにほかならなかった。
生命の力とその闘争、それがジャン・クリストフの生涯を彩《いろど》るものであった。絶食を余儀なくせらるるまでの貧困、愛する人々の死より来る無惨なる悲哀、愚昧《ぐまい》なる周囲から道徳的破産を宣せらるるの恥辱、すべてを巻き込まんとする虚偽粉飾の生温い空気、その他あらゆるものに彼の霊肉はさいなまれた。しかしながら彼は、自分の信念を道づれとして勇ましく自分の道を切りひらいていった。いかにつまずき倒れても、ふたたび猛然と奮《ふる》いたつだけの力が、彼の内部から湧き上がってきた。苦しめば苦しむほど、障害を突破すればするほど、その力はますます大きくなっていった。そして彼の苦闘の生涯は、洋々として流れていった。
「ジャン・クリストフ」十巻は、実にかかる力の河の流れを、そのまま写し出したものである。あるいは急湍《きゅうたん》をなしあるいは深き淵《ふち》を作りつつも、それは常に力強く流れてゆく。「ジャン・クリストフ」十巻は一つの河流として、作者ロマン・ローランの脳裡《のうり》に映じていた。そこにはいわゆる小説らしい構図はない。ただ一筋の流れがあるのみである。そしてその一筋の流れを、眼に見えるがようにではなく、耳に聞えるがように、作者はわれわれに伝えている。
ロマン・ローランは、看《
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