み》る人ではなくてむしろ聴く人である。直覚によって事象の内部に探り入り、その内生命の神秘を、音楽的の暗示力によって伝えんとする人である。「ジャン・クリストフ」十巻がいかに音楽的|諧調《かいちょう》に満たされているかは、次の告白によっても明らかである。――「まず私は、作全体の音楽的印象をまるで星雲のように思いこらして、それから句一つ一つの律動《リズム》をも思い刻《きざ》んでみたが、それよりは主要なモティーフ、わけても作全体における巻と巻との連絡、一巻における章と章との連絡、一章における節と節との連絡、それらから生ずる律動《リズム》を、より深く思い刻んでみた。私はここに一の本能的な法則があることを了解している。そして私の書くいっさいは、この法則によって命ぜられている。」――しかも彼の感受性は、静の状態のうちより動の響きを聴き取るだけの精緻《せいち》さを具え、その響きを精細に分析するだけの鋭利さを具え、全体を整然と統一するだけの明敏なる知力を伴っている。彼の把握《はあく》力は、気分の世界を通じて本質にまでせまってゆく。われわれはジャン・クリストフの性格を見せらるるのみではなく、その心臓の鼓動をじかに聞かせらるる。
 ロマン・ローランは、フランスの中部に位するクラムシーという小さな都会で、古くより純粋のフランスの血を伝えている家庭に、一八六六年に生まれた。そしてパリーおよびローマで教育を受けた。彼の風貌《ふうぼう》のうちには、沈重《ちんちょう》な北方人の趣きと瞑想《めいそう》的な苦行者の趣きとがあるといわれているが、その心には、輝かしい溌剌《はつらつ》たる[#「溌剌《はつらつ》たる」は底本では「溌刺《はつらつ》たる」]魂が蔵せられていた。明敏な知力と精鋭な感受性と豊富な生活力とが、彼のうちに熾《も》えたっていた。万人の魂をして、同じ力に、同じ生命の火に、燃えたたしむること、それが彼の理想であった。民衆をして、プロメシュースの火の薪《たきぎ》たらしむることであった。そして彼が試みた最初の努力は、新らしい民衆劇を起こさんとすることであった。しかし彼の最も力強い著述は、偉人|叢書《そうしょ》三巻と「ジャン・クリストフ」十巻とである。後者は一九〇四年から一二年までの間に世にあらわれた。前者のうち、「ベートーヴェン伝」は一九〇三年に、「ミケルアンゼロ伝」は一九〇六年に、「トルストイ伝」は一九一一年に出た。そしてこの三巻は、「ジャン・クリストフ」の基調となるものであった。強烈な意力をもってあらゆる苦痛をも力強きものたらしめつつ、最後まで戦いぬいたベートーヴェン、あまりに弱い霊と肉とのために不安焦燥混乱のうちに投ぜられつつ、内に燃え上がる過剰な力に苦しみつづけたミケルアンゼロ、無慈悲なるまでに明るい視力によって照らし出さるる現実の醜い姿に悩みつつ、わき目もふらずに真理と愛とを追求してやまなかったトルストイ、この三人の天才の力が、ジャン・クリストフの中に投げ込まれている。
 かかる力に駆られて邁進《まいしん》するジャン・クリストフは、ついにいかなる境地にたどりつくであろうか。フランス国外に逃亡した彼は、スイスにおいて、自分の恩人の妻と不思議な恋におちいった。そして情欲の動乱と罪悪の恥辱とに医《いや》しがたい傷を受けた彼は、敗残の身をジュラの山奥にひそめた。愛と憎悪との矛盾|相剋《そうこく》にさいなまれた彼は、苦痛の底から謙虚な心をもって周囲を見回した。すると愛と憎との荒れ狂う世界が眼前に展開してきた。獣類も草木も野も山も、宇宙のいっさいが争闘し合っていた。その悲壮な光景が、いかなる価においても生きんとの欲望を、彼の心のうちに復活せしめた。暗夜森林の奥において、彼はおのれのうちにある神の声を聞いた。それは戦いの神であり、また力強い生命それ自身であった。かくてふたたび甦《よみがえ》った彼の前には、すでに新らしい時代が開けていた。しかもそれは戦《いくさ》の時代であった。各民族が内部の力の充実によって、古くから沈滞している血潮を沸騰せしめながら、おのれの生を拡大せんとする復興の時代であった。若きフランス、若きドイツ、若きイタリー、皆そうであった。火は燃え上がり始めんとしていた。陰鬱《いんうつ》な灰色のうちに沈んでいたヨーロッパが、今や火の飼食《えじき》となろうとしていた。国民的大戦争はただ偶然の口火を待つのみであった。ジャン・クリストフは、そういう国家的利己主義の前に戦《おのの》いた。彼にいわすれば、ドイツとフランスとは、たがいに相補って欧州文明の双翼となるべきものであった。両者を距《へだ》つる国境は撤せらるべきものであった。すでに一つの国境が撤せらるれば、他のあらゆる国境も撤せられなければならない。そして後人類は初めて平和のうちに相愛するであろう。しかしな
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