す》の一つは、ちょうど鏡の前になっていた。その鏡こそは、彼にとっては宿命的なものであり、マリユスにとっては天意的なものであって、すなわち彼がコゼットの逆の文字を吸い取り紙の上に読み得たその鏡だった。彼は鏡の中に自分の顔をのぞいたが、自分とは思えないほどだった。八十歳にもなるかと思われた。マリユスの結婚前には、ようやく五十歳になるかならないくらいに思えたが、この一年の間に三十ほども年を取ってしまっていた。今額にあるものは、もはや老年の皺《しわ》ではなくて、死の神秘な標《しるし》だった。無慈悲な爪《つめ》の痕《あと》がそこに感ぜられた。両の頬《ほお》はこけていた。顔の皮膚は、既に土をかぶったかと思われるような色をしていた。口の両すみは、古人がよく墓の上に刻んだ多くの面に見るように、下にたれ下がっていた。彼は非難するような様子で空《くう》をながめた。だれかをとがめずにはいられない悲壮な偉人のひとりかと思われた。
 彼はもはや悲哀の流れも涸《か》れつくしたという状態に、疲憊《ひはい》の最後の一段にあった。悲しみも言わば凝結してしまっていた。人の魂についても、絶望の凝塊とでも言うべきものがある。
 夜になった。彼は非常な努力をして、テーブルと古い肱掛《ひじか》け椅子《いす》とを暖炉のそばに引き寄せ、テーブルの上にペンとインキと紙とをのせた。
 それがすんで、彼は気を失った。意識を恢復すると、喉《のど》がかわいていた。水差しを持ち上げることができないので、それをようやく口の方へ傾けて、一口飲んだ。
 それから彼は寝床の方を振り向き、立っておれないのでやはりすわったまま、小さな黒い長衣とその他の大事な品々とをながめた。
 そういう観照は、数分間と思ってるうちにはや幾時間にもなるものである。突然彼は身震いをし、寒気《さむけ》に襲わるるのを感じた。彼は司教の燭台《しょくだい》にともってる蝋燭《ろうそく》に照らされたテーブルに肱《ひじ》をかけて、ペンを取り上げた。
 ペンもインキも長く使わないままだったので、ペンの先は曲がり、インキはかわいていた。彼は立ちあがって数滴の水をインキの中に注がなければならなかった。それだけのことをするにも二、三回休んで腰をおろした。それにまたペンは背の方でしか字が書けなかった。彼はときどき額を拭《ふ》いた。
 彼の手は震えていた。彼はゆっくりと次のような数行を認めた。

 [#ここから2字下げ]
 コゼット、私はお前を祝福する。私はここにちょっと説明しておきたい。お前の夫《おっと》が、私に去るべきものであることを教えてくれたのは、至当なことである。けれども、彼が信じていることのうちには少し誤りがある。しかしそれも彼が悪いのではない。彼はりっぱな人である。私が死んだ後も、常に彼をよく愛しなさい。ポンメルシー君、私の愛児を常に愛して下さい。コゼット、私はここに書き残しておく。これは私がお前に言いたいと思ってることである。私にまだ記憶の力が残っていたら、数字も出てくるであろうが、よく聞きなさい。あの金はまったくお前のものである。そのわけはこうである。白飾玉はノールウェーからき、黒飾玉はイギリスからき、黒ガラス玉はドイツから来る。飾り玉の方が軽くて貴《とうと》くて価も高い。その擬《まが》い玉はドイツでできるが、フランスでもできる。二寸四方の小さな鉄碪《かなしき》と鑞《ろう》を溶かすアルコールランプとがあればよい。その鑞は、以前は樹脂と油煙とで作られていて、一斤四フランもしていた。ところが私は漆《うるし》とテレビン油とで作ることを考え出した。価はわずかに三十スーで、しかもずっと品がよい。留め金は紫のガラスでできるのだが、右の鑞でそのガラスを黒い鉄の小さな輪縁につける。ガラスは鉄の玉には紫でなければいけないし、金《きん》の玉には黒でなければいけない。スペインにその需要が多い。それは飾り玉の国で……
[#ここで字下げ終わり]

 そこで彼は書くのをやめ、ペンは指から落ち、時々胸の底からこみ上げてくる絶望的なすすり泣きがまた襲ってき、あわれな彼は両手で頭を押さえ、そして思いに沈んだ。
「ああ、万事終わった。」と彼は心の中で叫んだ(神にのみ聞こえる痛むべき叫びである)。「私はもう彼女に会うこともあるまい。それは一つのほほえみだったが、もう私の上を通りすぎてしまった。彼女を再び見ることもなく、私はこのまま闇夜《やみよ》のうちにはいってゆくのか。おお、一分でも、一秒でも、あの声をきき、あの長衣にさわり、あの顔を、あの天使のような顔をながめ、そして死ねたら! 死ぬのは何でもない。ただ恐ろしいのは、彼女に会わないで死ぬことだ。彼女はほほえんでくれるだろう、私に言葉をかけてくれるだろう。そうしたとてだれかに災いをおよぼすだろうか。いやいや、もう済んでしまった、永久に。私はこのとおりただひとりである。ああ、私はもう彼女に会えないだろう。」
 その時だれか扉《とびら》をたたく者があった。

     四 物を白くするのみなる墨壺《すみつぼ》

 ちょうどその時、なおよく言えばその同じ夕方、マリユスが食卓を離れ、訴訟記録を調べる用があって、自分の事務室に退いた時、バスクが一通の手紙を持ってきて言った。「この手紙の本人が控え室にきております。」
 コゼットは祖父の腕を取って、庭を一回りしていた。
 手紙にも人間と同じく、気味の悪いものがある。粗末な紙、荒い皺《しわ》、一目見ただけでも不快の気を起こさせるものがある。バスクが持ってきた手紙はそういう種類のものだった。
 マリユスはそれを手に取った。煙草《たばこ》のにおいがしていた。およそにおいほど記憶を呼び起こさせるものはない。マリユスはその煙草のにおいに覚えがあった。彼は表をながめた。「御邸宅にて[#「御邸宅にて」に傍点]、ポンメルシー男爵閣下[#「ポンメルシー男爵閣下」に傍点]。」煙草のにおいに覚えがあるために、彼は手跡にも覚えがあることがわかった。驚きの情にも電光があると言っても不当ではない。マリユスはそういう電光の一つに照らされたようだった。
 記憶の神秘な助手であるにおいは、彼のうちに一世界をよみがえらした。紙といい、たたみ方といい、インキの青白い色といい、また見覚えのある手跡といい、ことに煙草のにおいといい、すべてが同じだった。ジョンドレットの陋屋《ろうおく》が彼の目の前に現われてきた。
 偶然の不思議なる悪戯よ! かくて、彼があれほどさがしていた二つの踪跡《そうせき》のうちの一つ、最近更に多くの努力をしたがついにわからずもう永久に見いだせないと思っていた踪跡《そうせき》は、向こうから彼の方へやってきたのである。
 彼は貪《むさぼ》るように手紙を披《ひら》いて読み下した。

[#ここから2字下げ]
    男爵閣下
 もし天にして小生に才能を与えたまいしならんには、小生は学士院(科学院)会員テナル男爵となり得|候《そうら》いしものを、ついにしからずして終わり候《そうろう》。小生はただその名前のみを保有し居候が、この一事によって閣下の御好意に浴するを得ば幸甚に御座候。小生に賜わる恩恵は報いらるるべき所これ有り候。と申すは、小生はある個人に関する秘密を握りおり、その個人は閣下に関係ある男に候。小生はただ閣下の御ためを計るの光栄を希望する者にて、おぼしめしこれ有り候わばその秘密を御伝え申すべく候。男爵夫人閣下は素性高き方に候えば、小生はただ閣下の貴き家庭より何ら権利なきその男を追い払い得る、きわめて簡単なる方法を御知らせ申すべく候。高徳の聖殿も長く罪悪と居を共にする時は、ついには汚るるものに御座候。
  小生は控え室にて、閣下の御さし図を相待ち居候。敬具。
[#ここで字下げ終わり]

 手紙にはテナル[#「テナル」に傍点]と署名してあった。
 その署名は必ずしも偽りではなかった。ただ少し縮めただけのものだった。
 その上、その冗文と文字使いとは事実を明らかに語っていた。出所は充分|明瞭《めいりょう》だった。疑問をはさむの余地はなかった。
 マリユスは深く心を動かされた。そして驚駭《きょうがい》の後に喜びの念をいだいた。今はもはや、捜索しているもうひとりの男を、自分を救ってくれた男を、見いだすのみであって、それができればもう他に望みはなくなるわけだった。
 彼は仕事机の引き出しを開き、中からいくばくかの紙幣を取り出し、それをポケットに入れ、机をまた閉ざし、そして呼鈴《ベル》を鳴らした。バスクが扉《とびら》を少し開いた。
「ここに通してくれ。」とマリユスは言った。
 バスクは案内してきた。
「テナル様でございます。」
 ひとりの男がはいってきた。
 マリユスは新たな驚きを覚えた。はいってきたのはまったく見知らぬ男だった。
 その男は、と言ってももう老人だが、大きな鼻を持ち、頤《あご》を首飾りの中につき込み、目には緑色の琥珀絹《こはくぎぬ》で縁|覆《おお》いした緑色の眼鏡《めがね》をかけ、髪は額の上に平らになでつけられて眉毛《まゆ》の所まで下がり、イギリスの上流社会の御者がつけてる鬘《かつら》のようだった。その髪は半ば白くなっていた。頭から足先まで黒ずくめで、その黒服はすり切れてはいるが小ぎれいだった。一ふさの飾り玉が内隠しから出ていて、時計がはいってることを示していた。手には古い帽子を持っていた。前かがみに歩いていて背中が曲がってるために、そのお時儀はいっそう丁寧らしく見えた。
 一目見ても不思議なことには、その上衣はよくボタンがかけられてるのにだぶだぶしていて、彼のために仕立てられたものではなさそうだった。
 ここにちょっと余事を述べておく必要がある。
 当時パリーには、ボートレイイ街の造兵廠《ぞうへいしょう》の近くの古い怪しい小屋に、ひとりの怜悧《れいり》なユダヤ人が住んでいて、不良の徒を良民に変装してやるのを仕事としていた。長い時間を要しなかったので、悪者らにとっては、至って便利だった。日に三十スー出せば、一日か二日の約束で、見てるまに服装を変えてくれて、できるだけうまくあらゆる種類の良民に仕立ててくれた。衣裳を貸してくれるその男は、取り替え人[#「取り替え人」に傍点]と呼ばれていた。それはパリーの悪者らがつけた名前で、別の名前は知られていなかった。彼はかなりそろった衣服室を持っていた。人々を変装してやる衣服は相当な品だった。彼は特殊な才能を持ち、種々の方法を心得ていた。店の釘《くぎ》にはそれぞれ、社会のあらゆる階級の擦《す》れ切れた皺《しわ》だらけの衣裳がかかっていた。こちらに役人の服があり、あちらに司祭の服があり、一方に銀行家の服があり、片すみに退職軍人の服があり、他のすみには文士の服があり、向こうには政治家の服がある、という具合になっていた。その男はパリーで演ぜられる大きな泥坊芝居《どろぼうしばい》の衣裳方だった。その小屋は詐偽窃盗の出入りする楽屋だった。ぼろをまとってるひとりの悪漢が衣服室にやってき、三十スー出し、その日演じようとする役目に従って適当な服装を選み、そして再び階段をおりてゆく時には、まったく相当な人間に変わっていた。翌日になると、その衣服は正直に返却された。盗賊らをすっかり信用してる取り替え人は、決して品物を盗まれることがなかった。ただその衣服には一つ不便な点があった。すなわち「うまく合わない」ということだった。着る人の身体に合わして作られたものでなかったから、甲の者には小さすぎ、乙の者には大きすぎるという具合に、だれにもきっちり合わなかった。普通の者より小さいか大きいかが常である悪者らは、取り替え人の衣服にははなはだ具合が悪かった。またあまりふとっていてもあまりやせていてもいけなかった。取り替え人は普通の人間をしか頭に入れていなかった。ふとってもいずやせてもいず、背が高くも低くもない、始めてぶっつかった奴の身体に合わして、標準をきめていた。そのために着換えをすることが困難な場合もしばしば起こって、顧客らはできるだけの手段を尽してその困難を切りぬけようとして
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