いた。並みはずれの体格を持ってる者には、気の毒なわけだった。たとえば、政治家の服装はすっかり黒ずくめで、従って適宜なものであったが、ピットにはあまり広すぎ、カステルシカラにはあまり狭すぎた。この政治家[#「政治家」に傍点]の服は、取り替え人の目録の中には次のように指定されていた。それをここに書き写してみよう。「黒ラシャの上衣、黒の厚ラシャのズボン、絹のチョッキ、靴《くつ》、およびシャツ。」欄外に、前大使[#「前大使」に傍点]としてあって、注がついていた。その注をも写してみよう。「別の箱にあり、程よき巻き髪の鬘《かつら》、緑色の眼鏡、時計の飾り玉、および、綿にくるみたる長さ一寸の小さな羽軸二本。」それだけで前大使たる政治家ができ上がるのだった。その服装は言わば衰弱しきっていた。縫い目は白ばんでおり、一方の肱《ひじ》にはボタン穴くらいの破れ目ができかかっていた。その上、上衣の胸にボタンが一つ取れていた。しかしそれは何でもないことだった。政治家の手はいつも上衣の中に差し込まれて胸を押さえてるものであるから、ボタンが一つ足りないのを隠す役目をもするわけだった。
もしマリユスが、パリーのそういう隠密な制度に通じていたならば、今バスクが案内してきた客の背に、取り替え人の所から借りてきた政治家の上衣を、すぐに見て取り得たはずである。
マリユスは予期していたのと違った男がはいってくるのを見て失望し、失望の念はやがて新来の客に対する嫌悪《けんお》の情となった。そして男が低く頭を下げてる間、彼はその頭から足先までじろじろながめて、きっぱりした調子で尋ねた。
「何の用ですか。」
男は鰐《わに》の媚《こ》び笑いとでも言えるように、歯をむき出して愛相笑いをしながら答えた。
「閣下には方々でお目にかかる光栄を得ましたように覚えております。ことに数年前、バグラシオン大公夫人のお邸《やしき》や、上院議員ダンブレー子爵のお客間などで、お目にかかったように存じております。」
まったく初対面の人にもどこかで前に会ったような様子をするのは、卑劣な男の巧みな慣用手段である。
マリユスは男の話に注意していた。しかしいくらその声の調子や身振りに目をつけても、失望は大きくなるばかりだった。鼻にかかった声であって、予期していた鋭いかわいた声音《こわね》とはまったく異なっていた。彼はまったく推定に迷わされた。
「僕は、」と彼は言った、「バグラシオン夫人もダンブレー氏も知りません。まだどちらの家にも足をふみ入れたことはかつてありません。」
その答えは無愛想だった。それでもなお男は慇懃《いんぎん》に言い続けた。
「ではお目にかかりましたのは、シャトーブリアン氏のお宅でしたでしょう。私はシャトーブリアン氏をよく存じております。なかなか愛想のよいお方です。どうだテナル、いっしょに一杯やろうか、などと時々申されます。」
マリユスの顔はますます険しくなった。
「僕はまだシャトーブリアン氏の宅に招かれたことはありません。つまらないことはぬきにしましょう。結局どういう用ですか。」
男はいっそうきびしくなったその声の前に、いっそう低く頭を下げた。
「閣下、まあどうかお聞き下さい。アメリカのパナマに近い地方にジョヤという村がございます。村と申しましても、家は一軒きりございません。堅い煉瓦作りの[#「煉瓦作りの」は底本では「練瓦作りの」]四階建てになっている大きな四角な家でありまして、その四角の各辺が五百尺もあり、各階は下の階より十二尺ほど引っ込んで、それだけがぐるりと平屋根になっています。中央が中庭で、食料や武器が納められています。窓はなくてみな銃眼になり、戸はなくてみな梯子《はしご》になっています。すなわち地面から二階の平屋根へ上れる梯子、次は二階から三階へ、三階から四階へとなっていまして、また中庭におりられる梯子もあります。室《へや》には扉《とびら》がなくてみな揚げ戸になり、階段がなくてみな梯子になっています。晩になると、揚げ戸をしめ、梯子を引き上げ、トロンブロン銃やカラビン銃を銃眼に備えます。内へはいることは到底できません。昼間は住家で、夜は要塞《ようさい》で、住民は八百人というのがその村のありさまでございます。なぜそんなに用心をするかと申せば、ごく危険な地方だからであります。食人人種がたくさんおります。ではなぜそんな所へ行くかと言いますれば、実に素敵な土地でありまして、黄金が出るからであります。」
「結局どういうことになるんですか。」と失望から性急に変わってマリユスは話をさえぎった。
「こういうことでございます、閣下。私はもう疲れはてた古い外交官であります。古い文明のために力を使い果たしてしまいました。それで一つ野蛮な仕事をやってみようと思っているのでございます。」
「だから?」
「閣下、利己心は世界の大法であります。日傭稼《ひようかせ》ぎの貧乏な田舎女《いなかおんな》は、駅馬車が通れば振り返って見ますが、自分の畑の仕事をしてる地主の女は、振り向きもいたしません。貧乏人の犬は金持ちに吠《ほ》えかかり、金持ちの犬は貧乏人に吠えかかります。みな自分のためばかりです。利益、それが人間の目的であります。金は磁石であります。」
「だから? 結局何ですか。」
「私はジョヤに行って住みたいと思っております。家族は三人で、私の妻に娘、それもごく美しい娘でございます。旅は長くて、金もよほどかかります。私は金が少しいるのでございます。」
「それが何で僕に関係があるんですか。」とマリユスは尋ねた。
男は首飾りから首を差し出した。禿鷹《はげたか》のよくやる身振りである。そして彼はいっそう笑顔を深めて答えた。
「閣下は私の手紙を御覧になりませんでしたでしょうか。」
それはほとんどそのとおりであった。実際、手紙の内容にマリユスはよく気を止めなかった。彼は手紙を読んだというよりむしろその手跡を見たのだった。何が書いてあったかはほとんど覚えていなかった。けれどもちょっと前から新しい糸口が現われてきた。彼は「私の妻に娘」という一事に注意をひかれた。そして鋭い目を男の上に据えていた。予審判事といえどもそれにおよぶまいと思われるほど、じっと目を注いでいた。ほとんど待ち伏せをしてるようなありさまだった。それでも彼はただこう答えた。
「要点を言ってもらいましょう。」
男は二つの内隠しに両手をつき込み、背筋をまっすぐにせずただ頭だけをあげて、こんどはこちらから緑色の眼鏡越しにマリユスの様子をうかがった。
「よろしゅうございます、閣下。要点を申し上げましょう。私は一つ買っていただきたい秘密を手にしております。」
「秘密!」
「秘密でございます。」
「僕に関しての?」
「はい少しばかり。」
「その秘密とはどういうことです?」
マリユスは相手の言うことに耳を傾けながら、ますます注意深くその様子を観察していた。
「私はまず報酬を願わないでお話しいたしましょう。」と男は言った。「私がおもしろい人物である事もおわかりでございましょう。」
「お話しなさい。」
「閣下、あなたはお邸《やしき》に盗賊と殺人犯とをおいれになっております。」
マリユスは慄然《りつぜん》とした。
「僕の宅に? いや決して。」と彼は言った。
男は平然として、肱《ひじ》で帽子の塵《ちり》を払い、言い進んだ。
「人殺しでかつ盗賊であります。よくお聞き下さい、閣下。私が今申し上げますのは、古い時期おくれの干からびた事実ではありません。法律に対しては時効のために消され、神に対しては悔悟のために消されたような、そういう事実ではありません。最近の事実、現在の事実、今にまだ法廷から知られていない事実、それを申してるのであります。続けてお話しいたしますが、その男がうまくあなたの信用を得、名前を変えて御家庭にはいり込んでおります。その本名をお知らせ申しましょう。しかもただでお知らせいたしましょう。」
「聞きましょう。」
「ジャン・ヴァルジャンという名でございます。」
「それは知っています。」
「なお私は報酬も願わないで、彼がどういう人物だかを申し上げましょう。」
「お言いなさい。」
「元は徒刑囚だった身の上です。」
「それは知っています。」
「私が申し上げましたからおわかりになりましたのでしょう。」
「いや。前から知っていたのです。」
マリユスの冷然たる調子、それは知っています[#「それは知っています」に傍点]という二度の返事、相手に二の句をつがせないような簡明さ、それらは男の内心を多少|激昂《げっこう》さした。彼は憤激した目つきをちらとマリユスに投げつけた。そのまなざしはすぐに隠れて、一瞬の間にすぎなかったが、一度見たら忘れられないようなものだった。マリユスはそれを見のがさなかった。ある種の炎はある種の魂からしか発しない。思想の風窓である眸《ひとみ》は、そのために焼かれてしまう。眼鏡《めがね》もそれを隠すことはできない。地獄にガラスをかぶせたようなものである。
男はほほえみながら言った。
「私は何も男爵閣下のお言葉に逆らうつもりではございません。がとにかく、私がよく秘密を握っているということは認めていただきたいのでございます。これからお知らせ申し上げますことは、ただ私ひとりしか承知していないことであります。それは男爵夫人閣下の財産に関することでございます。非常な秘密でありまして、金に代えたいつもりでいます。でまず最初閣下にお買い上げを願いたいのです。お安くいたしましょう。二万フランに。」
「その秘密というのも、他の秘密と同様に私は知っています。」とマリユスは言った。
男はその価を少しく下げる必要を感じた。
「閣下、一万フラン下されば申し上げましょう。」
「繰り返して言うが、君は僕に何も教えるものはないはずです。君が話そうという事柄を僕は皆知っています。」
男の目には新しいひらめきが浮かんだ。彼は声を高めた。
「それでも私は今日の食を得なければなりません。まったくそれは非常な秘密です。閣下、お話しいたしましょう。お話しいたしましょう。二十フラン恵んで下さい。」
マリユスは彼をじっと見つめた。
「僕も君の非常な秘密を知っています。ジャン・ヴァルジャンの名前を知ってると同様に、君の名前も知っています。」
「私の名前を?」
「そうです。」
「それはわけもないことでしょう、閣下。私はそれを手紙に書いて差し上げましたし、また自分で申し上げました、テナルと。」
「ディエ。」
「へえ!」
「テナルディエ。」
「それはだれのことでございますか。」
危険になると、豪猪《やまあらし》は毛を逆立て、甲虫《かぶとむし》は死んだまねをし、昔の近衛兵は方陣を作るが、この男は笑い出した。
それから彼は上衣の袖《そで》を指で弾《はじ》いてほこりを払った。
マリユスは続けて言った。
「君はまたそのほか、労働者ジョンドレット、俳優ファバントゥー、詩人ジャンフロー、スペイン人ドン・アルヴァレス、およびバリザールの家内とも言う。」
「何の家内で?」
「なお君は、モンフェルメイュで飲食店をやっていた。」
「飲食店? いえ、どうしまして。」
「そして君の本名はテナルディエというのだ。」
「さようなことはありません。」
「そして君は悪党だ。そら。」
マリユスはポケットから一枚の紙幣を取り出して、相手の顔に投げつけた。
「ありがとうございます。ごめん下さい。五百フラン! 男爵閣下!」
男は狼狽《ろうばい》して、お時儀をし、紙幣をつかみ、それを調べた。
「五百フラン!」と彼は茫然《ぼうぜん》として繰り返した。そして半ば口の中でつぶやいた、「いい代物《しろもの》だ!」
それから突然彼は叫んだ。
「これでいいとしよう。楽にしましょう。」
そして猿《さる》のような敏捷《びんしょう》さで、髪をうしろになで上げ、眼鏡《めがね》をはずし、二本の羽軸を鼻から引き出してしまい込んだ。その羽軸は上《かみ》に述べておいたもので、また本書の他の所でも読者が既に見てきたものである。かくて彼は、あた
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