ふうに閉ざされてることは疑いない。彼がはいってきた鉄格子は偶然にもゆるんでいたが、しかし下水道の他の口がすべて閉ざされてることは明らかである。彼はただ牢獄《ろうごく》の中に逃げ込み得たに過ぎなかった。
万事終わりであった。ジャン・ヴァルジャンがなしてきたすべては徒労に帰した。神はそれを受け入れなかったのである。
かれらは二人とも、死の大きな暗い網に捕えられてしまった。そしてジャン・ヴァルジャンは、暗黒の中に震え動くまっ黒な網の糸の上に恐るべき蜘蛛《くも》が走り回るのを感じた。
彼は鉄格子に背を向け、やはり身動きもしないでいるマリユスのそばに、舗石《しきいし》の上に、すわるというよりもむしろ打ち倒れるように身を落とした。その頭は両膝《りょうひざ》の間にたれた。出口はない。それが苦悶の最後の一滴であった。
その深い重圧の苦しみのうちに、だれのことを彼は考えていたか。それは自分のことでもなく、またマリユスのことでもなかった。彼はコゼットのことを思っていたのである。
八 裂き取られたる上衣の一片
その喪心の最中に、一つの手が彼の肩に置かれ、一つの声が低く彼に話しかけた。
「山分けにしよう。」
その闇《やみ》の中にだれがいたのであろうか。絶望ほど夢に似たものはない。ジャン・ヴァルジャンは夢をみてるのだと思った。少しも足音は聞こえなかったのである。現実にそんなことがあり得るだろうか。彼は目をあげた。
一人の男が彼の前にいた。
男は労働服を着、足には何にもはかず、靴《くつ》を左手に持っていた。明らかに彼は、足音を立てないでジャン・ヴァルジャンの所まで来るために、靴をぬいだのだった。
ジャン・ヴァルジャンはその男がだれであるかを少しも惑わなかった。いかにも意外な邂逅《かいこう》ではあったが、見覚えがあった。テナルディエだった。
言わば突然目をさましたようなものだったが、ジャン・ヴァルジャンは危急になれており、意外の打撃をも瞬間に受け止めるように鍛えられていたので、直ちに冷静に返ることができた。それに第一、事情は更に険悪になり得るはずはなかった。困却もある程度におよべば、もはやそれ以上に大きくなり得ないものである。テナルディエが出てきたとて、その闇夜をいっそう暗くすることはできなかった。
しばし探り合いの時間が続いた。
テナルディエは右手を額の所まで上げて目庇《まびさし》を作り、それから目をまたたきながら眉根《まゆね》を寄せたが、それは口を軽くとがらしたのとともに、相手がだれであるかを見て取ろうとする鋭い注意を示すものだった。しかし彼はそれに成功しなかった。ジャン・ヴァルジャンは前に言ったとおり、光の方に背を向けていたし、またま昼間の光でさえも見分け難いほど泥《どろ》にまみれ血に染まって姿が変わっていた。それに反してテナルディエは、窖《あなぐら》の中のようなほの白い明りではあるがそのほの白さの中にも妙にはっきりしてる鉄格子《てつごうし》から来る光を、まっ正面に受けていたので、通俗な力強い比喩《ひゆ》で言うとおり、すぐにジャン・ヴァルジャンの目の中に飛び込んできたのである。この条件の違いは、今や二つの位置と二人の男との間に行なわれんとする不思議な対決において、確かにジャン・ヴァルジャンの方にある有利さを与えるに足りた。会戦は、覆面をしたジャン・ヴァルジャンと仮面をぬいだテナルディエとの間に行なわれた。
ジャン・ヴァルジャンはテナルディエが自分を見て取っていないのをすぐに気づいた。
ふたりはその薄暗い中で、互いに身長をはかり合ってるように、しばらくじろじろながめ合った。テナルディエが先に沈黙を破った。
「お前はどうして出るつもりだ。」
ジャン・ヴァルジャンは返事をしなかった。
テナルディエは続けて言った。
「扉《とびら》をこじあけることはできねえ。だがここから出なけりゃならねえんだろう。」
「そのとおりだ。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
「じゃあ山分けだ。」
「いったい何のことだ?」
「お前はその男をやっつけたんだろう。よろしい。ところで俺《おれ》の方に鍵《かぎ》があるんだ。」
テナルディエはマリユスをさし示した。彼は続けて言った。
「俺はお前を知らねえ、だが少し手伝おうというんだ。おだやかに話をつけようじゃねえか。」
ジャン・ヴァルジャンは了解しはじめた。テナルディエは彼を人殺しだと思ってるのだった。テナルディエはまた言った。
「まあ聞けよ、お前はそいつの懐中を見届けずにやっつけたんじゃあるめえ。半分|俺《おれ》によこせ。扉を開いてやらあね。」
そして穴だらけの上衣の下から大きな鍵《かぎ》を半ば引き出しながら、彼は言い添えた。
「自由な身になる鍵がどんなものか、見てえなら見せてやる。これだ。」
ジャン・ヴァルジャンは、老コルネイユの用語を借りれば、「唖然《あぜん》とした。」そして眼前のことが果たして現実であるかを疑ったほどである。それは恐ろしい姿で現われてくる天意であり、テナルディエの形となって地から出て来る善良な天使であった。
テナルディエは上衣の下に隠されてる大きなポケットに手をつき込み、一筋の綱を取り出して、それをジャン・ヴァルジャンに差し出した。
「さあ、」と彼は言った、「おまけにこの綱もつけてやらあな。」
「綱を何にするんだ。」
「石もいるだろうが、それは外にある。こわれ物がいっぱい積んであるんだ。」
「石を何にするんだ。」
「ばかだな。お前はそいつを川に投げ込むつもりだろう。すりゃあ石と綱とがいるじゃねえか。そうしなけりゃ水に浮いちまわあな。」
ジャン・ヴァルジャンはその綱を取った。だれにでも、そういうふうにただ機械的に物を受け取ることがある。
テナルディエは突然ある考えが浮かんだかのように指を鳴らした。
「ところで、お前はどうして向こうの泥孔《どろあな》を越してきたんだ。俺《おれ》にはとてもできねえ。ぷー、あまりいいにおいじゃねえな。」
ちょっと黙った後、彼はまた言い出した。
「俺がいろんなことを聞いてるのに、お前が一向返事もしねえのはもっともだ。予審のいやな十五、六分間の下稽古だからな。それに、口をききさえしなけりゃあ、あまり大きな声を出しゃしねえかという心配もねえわけだからな。だがどっちみち同じことだ。お前の顔もよく見えねえし、お前の名も知らねえからといって、お前がどんな人間でどんなことをするつもりか、俺にわからねえと思っちゃまちがえだぜ。よくわかってらあね。お前はその男をばらして、今どこかに押し込むつもりだろう。お前には川がいるんだ。川ってものはばかなことをすっかり隠してしまうものだからな。困るなら俺が救ってやらあ。正直者の難儀を助けるなあ、ちょうど俺のはまり役だ。」
ジャン・ヴァルジャンが黙ってるのを彼は一方に承認しながらも、明らかに口をきかせようとつとめていた。彼は横顔でも見ようとするように、相手の肩を押した。そしてやはり中声をしたまま叫んだ。
「泥孔と言やあ、お前はどうかしてるね。なぜあそこにほうり込んでこなかったんだ?」
ジャン・ヴァルジャンは黙っていた。
テナルディエは襟飾《えりかざ》りとしてるぼろ布を喉仏《のどぼとけ》の所まで引き上げた。それは真剣になった様子を充分に示す身振りだった。そして言った。
「だが、つまりお前のやり方は悧巧《りこう》だったかも知れねえ。職人が明日穴でもふさぎに来れば、そこに死人が捨てられてるのをきっと見つける。そうすりゃあ、それからそれと糸をたぐって跡をかぎつけ、お前の身におよんでくる。下水道の中を通った奴《やつ》がいる。それはだれだ、どこから出たんだ、出るのを見た者があるか? なんて警察はなかなか抜け目がねえからな。下水道は裏切って、お前を密告する。死人なんていう拾い物は珍しいし、人の目をひく。だから下水道を仕事に使う奴はあまりいねえ。ところが川とくりゃあ、だれでも使ってる。川はまったく墓場だからな。一月もたってから、サン・クルーの網に死体がひっかかる。そうなりゃあかまったこたあねえ。身体は腐ってらあ。だれがこの男を殺したか、パリーが殺したんだ、てなことになる。警察だってろくに調べやしねえ。つまりお前は上手にやったわけだ。」
テナルディエがしゃべればしゃべるほど、ジャン・ヴァルジャンはますます黙り込んだ。テナルディエはまた彼の肩を押し動かした。
「さあ用事をすまそう。二つに分けるんだ。お前は俺《おれ》の鍵《かぎ》を見たんだから、俺にも一つお前の金を見せなよ。」
テナルディエは荒々しく、獰猛《どうもう》で、胸に一物あるらしく、多少|威嚇《いかく》するようなふうだったが、それでもごくなれなれしそうだった。
不思議なことが一つあった。テナルディエの態度は単純ではなかった。まったく落ち着いてるような様子はなかった。平気なふうを装いながら、声を低めていた。時々口に指をあてては、しッ! とつぶやいた。その理由はどうも察し難かった。そこには彼らふたりのほかだれもいなかった。おそらく他に悪党どもがどこかあまり遠くない片すみに潜んでいて、テナルディエはそれらと仕事を分かちたくないと思ってるのだと、ジャン・ヴァルジャンは考えた。
テナルディエは言った。
「話を片づけてしまおう。そいつは懐中にいくら持っていたんだ?」
ジャン・ヴァルジャンは身体中方々さがした。
読者の記憶するとおり、いつも金を身につけてるのは彼の習慣だった。臨機の策を講じなければならない陰惨な生活に定められてる彼は、金を用意しておくのを常則としていた。ところがこんどに限って無一物だった。前日の晩、国民兵の服をつけるとき、悲しい思いに沈み込んでいたので、紙入れを持つのを忘れてしまった。彼はただチョッキの隠しにわずかな貨幣を持ってるだけだった。全部で三十フランばかりだった。彼は汚水に浸ったポケットを裏返して、底部の段の上に、ルイ金貨一個と五フラン銀貨二個と大きな銅貨を五、六個並べた。
テナルディエは妙に首をひねりながら下脣《したくちびる》をつき出した。
「安っぽくやっつけたもんだな。」と彼は言った。
彼はごくなれなれしく、ジャン・ヴァルジャンとマリユスとのポケットに一々さわってみた。ジャン・ヴァルジャンは特に光の方に背を向けることばかりに気を使っていたので、彼のなすままに任した。テナルディエはマリユスの上衣を扱ってる間に、手品師のような敏捷《びんしょう》さで、ジャン・ヴァルジャンが気づかぬうちに、その破れた一片を裂き取って、自分の上衣の下に隠した。その一片の布は、他日被害者と加害者とがだれであるかを知る手掛かりになるだろうと、多分考えたのだろう。しかし金の方は、三十フラン以外には少しも見いださなかった。
「なるほど、」と彼は言った、「ふたりでそれだけっきり持たねえんだな。」
そして山分け[#「山分け」に傍点]という約束を忘れて、彼は全部取ってしまった。
大きな銅貨に対しては彼もさすがにちょっと躊躇《ちゅうちょ》した。しかし考えた末それをも奪いながら口の中でつぶやいた。
「かまわねえ、あまり安すぎるからな。」
それがすんで、彼はまた上衣の下から鍵《かぎ》を引き出した。
「さあ、お前は出なけりゃなるめえ。ここは市場のようなもんで出る時に金を払うんだ。お前は金を払ったから、出るがいい。」
そして彼は笑い出した。
彼がそういうふうに、見知らぬ男に鍵を貸してやり、その門から他人を出してやったのは、一殺害人を救ってやろうという純粋無私な考えからであったろうか。それについては疑いを入れる余地がある。
テナルディエはジャン・ヴァルジャンに自ら手伝って再びマリユスを肩にかつがせ、それから、ついて来るように合い図をしながら、跣足《はだし》の爪先でそっと鉄格子《てつごうし》の方へ進み寄り、外をのぞき、指を口にあて、決心のつかないようなふうでしばらくたたずんだ。やがて外の様子をうかがってしまうと、彼は鍵を錠前の中に差し込んだ。閂子《かんぬき》はすべり、扉
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