面に立ち並んでる周囲の人家の重みのため、地廊の丸天井が押しやられてゆがむか、あるいは、その圧力のために底部が破裂して割れ目ができることもある。パンテオンの低下は、一世紀以前に、サント・ジュヌヴィエーヴ山の隧道《すいどう》の一部をそういうふうにしてふさいでしまった。人家の重みのために下水道がくずれる時、ある場合にはその変動は、舗石《しきいし》の間が鋸形《のこぎりがた》に開いて上部の街路に現われた。その裂け目は亀裂した丸天井の長さだけうねうねと続いていて、損害は明らかに目に見えるので、すぐに修復することができた。けれどもまた、内部の惨害が少しも外部に痕跡《こんせき》を現わさないこともしばしばあった。そういう場合こそ下水夫は災いである。底のぬけた下水道に不用意にはいって、そのままになった者も往々ある。古い記録は、そのようにして崩壊孔の中に埋没した下水夫を列挙している。幾多の名前が出ている。そのうちには、ブレーズ・プートランという男があるが、カレーム・プルナン街の広場の下の崩壊孔に埋没した下水夫である。彼はニコラ・プートランの兄弟であって、このニコラ・プートランは、一七八五年に嬰児《みどりご》の墓地と言われていた墓地の最後の墓掘り人であった。その年にこの墓地は廃せられてしまったのである。
 またその中には、上にちょっとあげた愉快な青年子爵エスクーブローもいる。彼は絹の靴下《くつした》をはきバイオリンをささげて襲撃が行なわれたレリダ市の攻囲のおりの勇士のひとりだった。エスクーブローはある夜、従妹たるスールディ公爵夫人のもとにいた所を不意に見つけられ、公爵の剣をのがれるためにボートレイ下水道の中に逃げ込んだが、その崩壊孔の中に溺死《できし》してしまった。スールディ夫人はその死を聞いた時、薬壜《くすりびん》を取り寄せて塩剤を嗅《か》ぎ、嘆くのを忘れた。そういう場合には恋も続くものではない。汚水だめは恋の炎を消してしまう。ヘロはレアドロスの溺死体を洗うのを拒み、チスベはピラムスの前に鼻をつまんで「おお臭い!」と言う。([#ここから割り注]訳者注 古代の物語中の話[#ここで割り注終わり])

     六 崩壊孔

 ジャン・ヴァルジャンは一つの崩壊孔に出会ったのである。
 かかる崩壊は、当時シャン・ゼリゼーの地下にしばしば起こったことで、非常に流動性のものだったから、水中工事を困難ならしめ地下構造を脆弱《ぜいじゃく》ならしめていた。その流動性は、サン・ジョルジュ街区の砂よりもいっそう不安定なものであり、マルティール街区のガスを含んだ粘土層よりもいっそう不安定なものだった。しかも、サン・ジョルジュの砂地は、コンクリートの上に石堤を作ってようやく食い止められたものであり、マルティールの粘土層は、マルティール修道院の回廊の下では鋳鉄の管でようやく通路が穿《うが》たれたほど柔らかいものであった。一八三六年に、今ジャン・ヴァルジャンがはいり込んだその石造の古い下水道を改造するために、サン・トノレ郭外の下がこわされた時、シャン・ゼリゼーからセーヌ川まで地下に横たわってた流砂は非常な障害となって、工事は六カ月近くも続き、付近の住民、ことに旅館や馬車を所有してる人々の、ひどい不平の声を受けたものである。工事は困難なばかりでなく、また至って危険なものだった。実際、雨が四カ月半も続き、セーヌ川の溢水《いっすい》が三度も起こった。
 ジャン・ヴァルジャンが出会った崩壊孔は前日の驟雨《しゅうう》のためにできたものであった。下の砂土にようやくささえられていた舗石《しきいし》はゆがんで、雨水をふさぎ止め、水が中にしみ込んで、地くずれが起こっていた。底部はゆるんで、泥土《でいど》の中にはいり込んでいた。どれほどの長さに及んでいたか、それはわからない。やみは他の所よりもずっと濃くなっていた。それは暗夜の洞窟《どうくつ》の中にある泥土の穴だった。
 ジャン・ヴァルジャンは足下の舗石が逃げてゆくのを感じた。彼は泥濘《でいねい》の中にはいった。表面は水であり、底は泥であった。けれどもそれを通り越さなければならなかった。あとに引き返すことは不可能だった。マリユスは死にかかっており、ジャン・ヴァルジャンは疲れきっていた。それにまたどこにも他に行くべき道はなかった。ジャン・ヴァルジャンは前進した。その上、初めの二、三歩ではその窪地《くぼち》はさまで深くなさそうだった。しかし進むに従って、足はしだいに深く没していった。やがては、泥《どろ》が脛《すね》の半ばにおよび水が膝《ひざ》の上におよんだ。彼は両腕でできるだけマリユスを水の上に高く上げながら、進んでいった。今や泥は膝におよび、水は帯の所におよんだ。もう退くことはできなかった。ますます深く沈んでいった。底の泥土《でいど》は、ひとりの重さにはたえ得るくらい濃密だったが、明らかにふたりを支えることはできなかった。マリユスとジャン・ヴァルジャンとは、もし別々に分かれたらあるいは無事ですむかも知れなかった。しかしジャン・ヴァルジャンは、おそらくはもう死骸《しがい》になってるかも知れない瀕死《ひんし》のマリユスをにないながら、続けて前進した。
 水は腋《わき》まできた。彼は今にも沈み込むような気がした。その深い泥土の中で歩を運ぶのも辛うじてであった。ささえとなる泥の密度はかえって障害となった。彼はなおマリユスを持ち上げ、非常な力を費やして前進した。しかしますます沈んでいった。もう水から出てるのは、マリユスをささえてる両腕と頭とだけだった。洪水《こうずい》の古い絵には、そういうふうに子供を差し上げてる母親が見らるる。
 彼はなお沈んでいった。水を避けて呼吸を続けるために、頭をうしろに倒して顔を上向けた。もしその暗黒の中で彼を見た者があったら、影の上に漂ってる仮面かと思ったかも知れない。彼は自分の上に、マリユスのうなだれた頭と蒼白《そうはく》な顔とを、ぼんやり見分けた。彼は死に物狂いの努力をして、足を前方に進めた。足は何か固いものに触れた。一つの足場である。ちょうどいい時だった。
 彼は身を伸ばし、身をひねり、夢中になってその足場に乗った。あたかも生命のうちに上ってゆく階段の第一段のように思えた。
 危急の際に底の泥《どろ》の中で出会ったその足場は、底部の向こうの一端だった。それは曲がったままこわれないでいて、板のようにまた一枚でできてるかのように、水の下に撓《しな》っていた。よく築かれた石畳工事は、迫持《せりもち》になっていてかくまでに丈夫なものである。その一片の底部は、半ば沈没しながらなお強固で、まったく一つの坂道となっていた。一度その坂に足を置けば、もう安全だった。ジャン・ヴァルジャンはその斜面を上って、泥濘孔《でいねいこう》の彼岸に着いた。
 彼は水から出て、一つの石に出会い、そこにひざまずいた。彼は自然にそういう心地になって、しばらくそこにひざまずいたまま、全心を投げ出して言い知れぬ祈念を神にささげた。
 彼は身を震わし、氷のように冷たくなり、臭気にまみれ、瀕死《ひんし》の者をになって背をかがめ、泥濘をしたたらし、魂は異様な光明に満たされながら、立ち上がった。

     七 上陸の間ぎわに座礁することあり

 ジャン・ヴァルジャンは[#「ジャン・ヴァルジャンは」は底本では「ジャンヴァルジャンは」]再び進み出した。
 けれども、崩壊孔の中に生命は落としてこなかったとするも、力はそこに落としてきたがようだった。極度の努力に彼は疲憊《ひはい》しつくしていた。今は身体に力がなくて、三、四歩進んでは息をつき、壁によりかかって休んだ。ある時は、マリユスの位置を変えるために段の所にすわらなければならなかった。そしてもう動けないかと思った。しかしたとい力はなくなっていたとするも、元気は消えうせていなかった。彼はまた立ち上がった。
 彼はほとんど足早に絶望的に歩き出して、頭も上げず、息もろくにつかないで、百歩ばかり進んだ。すると突然壁にぶつかった。下水道の曲がり角《かど》に達し、頭を下げて歩いていたので、その壁に行き当たったのである。目を上げてみると、隧道《すいどう》の[#「隧道《すいどう》の」は底本では「隊道《すいどう》の」]先端に、前方の遠いごくはるかな彼方《かなた》に、一つの光が見えた。今度は前のように恐ろしい光ではなかった。それは楽しい白い光だった。日の光であった。
 ジャン・ヴァルジャンは出口を認めたのである。
 永劫《えいごう》の罰を被って焦熱地獄の中にありながら突然出口を認めた魂にして始めて、その時ジャン・ヴァルジャンが感じた心地を知り得るだろう。その魂は、焼け残りの翼をひろげて、光り輝く出口の方へ、狂気のごとく飛んでゆくに違いない。ジャン・ヴァルジャンはもう疲労を感じなかった。もうマリユスの重みをも感じなかった。足は再び鋼鉄のように丈夫になって、歩くというよりもむしろ走っていった。近づくにしたがって、出口はますますはっきり見えてきた。それは穹窿形《きゅうりゅうけい》の迫持《せりもち》で、しだいに低くなってる隧道の丸天井よりも更に低く、丸天井が下がるにしたがってしだいに狭《せば》まってる隧道よりも更に狭かった。隧道は漏斗《ろうと》の内部のようになっていた。かくしだいにつぼんでる不都合な形は、重罪監獄の側門を模したもので、監獄では理に合っているが、下水道では理に合わないので、その後改造されてしまった。
 ジャン・ヴァルジャンはその出口に達した。
 そこで彼は立ち止まった。
 まさしく出口ではあったが、出ることはできなかった。
 丸い門は丈夫な鉄格子《てつごうし》で閉ざされていた。そして鉄格子は、酸化した肱金《ひじがね》の上にめったに開閉された様子も見えず、石の框《かまち》に厚い錠前で固定してあり、錠前は赤く錆《さ》びて、大きな煉瓦《れんが》のようになっていた。鍵穴《かぎあな》も見え頑丈《がんじょう》な閂子《かんぬき》が鉄の受座に深くはいってるのも見えていた。錠前は明らかに二重錠がおろされていた。それは昔パリーがやたらに用いていた牢獄の錠前の一つだった。
 鉄格子の向こうには、大気、川、昼の光、狭くはあるが立ち去るには足りる汀《みぎわ》、遠い川岸通り、容易に姿を隠し得らるる深淵《しんえん》たるパリー、広い眼界、自由、などがあった。右手には下流の方にイエナ橋が見え、左手には上流の方にアンヴァリード橋が見えていた。夜を待って逃走するには好都合な場所だった。パリーの最も寂しい地点の一つだった。グロ・カイユーに向き合ってる汀だった。蠅《はえ》は鉄格子の間から出入していた。
 午後の八時半ごろだったろう。日は暮れかかっていた。
 ジャン・ヴァルジャンは底部のかわいた所に壁に沿ってマリユスをおろし、それから鉄格子に進んでいって、その鉄棒を両手につかんだ。そして狂気のごとく揺すったが、少しも動かなかった。鉄格子はびくともしなかった。弱い鉄棒を引きぬいて槓杆《てこ》とし扉《とびら》をこじあけるか錠前をこわすかするつもりで、彼は鉄棒を一本一本つかんだが、どれも小揺るぎさえしなかった。虎《とら》の牙《きば》もおよばないほど固く植わっていた。一つの槓杆もなく、一つの力になる物もなかった。障害は人力のおよぶべくもなかった。扉を開くべき方法は何もなかった。
 それでは彼は、そこで終わらなければならなかったのか。どうしたらいいか。どうなるのか。引き返して、既に通ってきた恐ろしい道程を繰り返すには、その力がなかった。それにまた、ようやく奇跡のように脱してきたあの泥濘《でいねい》の孔《あな》を、どうして再び通ることができよう。更にその泥濘の後には、あの警官の巡邏隊《じゅんらたい》があるではないか。確かに二度とそれからのがれられるものではない。そしてまた、どこへ行ったらいいか。どの方向を取ったらいいか。傾斜について進んでも、目的を達せられるものではない。他の出口にたどりついた所で、必ずやそれも石の蓋《ふた》か鉄の格子かでふさがれているだろう。あらゆる口がそういう
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