、蜂《はち》には花があり、蠅《はえ》には滴虫があり、蝋嘴《しめ》には蠅があった。彼らは互いに多少相|食《は》み合っていた。そこに善と悪との相交わる神秘がある。しかし彼らは一つとして空腹ではなかった。
 ふたりの見捨てられた子供は、大きな池のそばまできていたが、それら自然の光輝に多少心を乱されて、身を潜めようとしていた。人と否とを問わずすべて壮麗なるものに対するあわれな者弱い者の本能である。そして彼らは白鳥の小屋のうしろに隠れていた。
 間を置いて方々に、叫びの声、騒擾《そうじょう》の音、銃火の騒然たる響き、砲撃の鈍いとどろきなどが、風のまにまに漠然《ばくぜん》と聞こえていた。市場町の方面には屋根の上に煙が見えていた。人を呼ぶような鐘の音が遠くに響いていた。
 ふたりの子供は、それらの物音にも気づかないかのようだった。弟の方は時々半ば口の中で繰り返した。「腹がすいたよ。」
 ふたりの子供とほとんど同時に、別のふたり連れが大きな池に近づいてきた。五十歳ばかりの老人とそれに手を引かれてる六歳ばかりの子供とであった。確かに親子であろう。子供は大きな菓子パンを持っていた。
 後に廃されたことであるが、その当時は、マダム街やアンフェール街などのセーヌ川に沿ったある家には、リュクサンブールの園の鍵《かぎ》をそなえることが許されていて、借家人らは、鉄門が閉ざされた時でも自由に出入りし得られた。この親子はきっとそういう家の人であったに違いない。
 ふたりの貧しい子供はその「紳士」がやって来るのを見て、前よりもなお多少身を潜めた。
 それはひとりの中流市民であった。以前にマリユスがやはりその池のそばで、「過度を慎む」ようにと息子に言ってきかしてる一市民の言葉を、恋の熱に浮かされながら耳にしたことがあったが、あるいはそれと同じ人だったかも知れない。その様子は親切と高慢とを同時に示していて、その口はいつも開いてほほえんでいた。その機械的な微笑は、頤《あご》が張りすぎてるのに皮膚が少なすぎるためにできるのであって、心を示すというよりむしろ歯を示してるだけだった。子供はまだ食い終えないでいるかじりかけの菓子パンを持ったまま、もう腹いっぱいになってるような様子だった。暴動があるために子供の方は国民兵服をつけていたが、父親は用心のために平服のままだった。
 父と子とは二羽の白鳥が浮かんでる池の縁に立ち止まった。その市民は白鳥に対して特殊な賛美の心をいだいてるらしかった。彼はその歩き方の点ではまったく白鳥に似寄っていた。
 しかし今白鳥は泳いでいた。游泳は白鳥の主要な才能である。それはすこぶるみごとだった。
 もしふたりの貧しい子供が耳を傾けたならば、そして物を理解し得るだけの年齢に達していたならば、彼らはそこに一個のまじめな男の言葉を聞き取り得たであろう。父は子にこう言っていた。
「賢い人は少しのものに満足して生きている。私を見なさい。私ははなやかなことを好まない。金や宝石で飾り立てた着物を着たことはない。そんな虚飾は心の劣った者のすることだ。」
 その時、強い叫び声が鐘の音と騒擾の響きとを伴って、市場町の方から突然聞こえてきた。
「あれはなに?」と子供は尋ねた。
 父は答えた。
「お祭だよ。」
 すると突然彼は、白鳥の緑色の小屋のうしろに身動きもしないで隠れてるぼろ着物のふたりの子供を見つけた。
「あんなのがそもそもの始まりだ。」と彼は言った。
 そしてちょっと黙った後に言い添えた。
「無政府主義がこの園にまで入り込んできてる。」
 そのうちに子供は、菓子パンをかじったが、それをまた吐き出し、急に泣き出した。
「何で泣くんだい。」と父は尋ねた。
「もうお腹《なか》がすいていないんだもの。」と子供は言った。
 父親の微笑はなお深くなった。
「お菓子を食べるには何もお腹がすいてなくてもいい。」
「このお菓子はいやだ。固くなってるから。」
「もう欲しくないのか?」
「ええ。」
 父は白鳥の方をさし示した。
「あの鳥に投げてやりなさい。」
 子供は躊躇《ちゅうちょ》した。もう食べたくないからと言って、それで他の者にくれてやる理由とはならない。
 父は言い続けた。
「慈悲の心を持ちなさい。動物をもあわれまなければいけない。」
 そして彼は子供の手から菓子を取って、それを池の中に投げやった。
 菓子は岸の近くに落ちた。
 白鳥は遠く池の中程にいて、他の餌《え》を漁《あさ》っていた。そして市民にも菓子パンにも気がつかなかった。
 市民は菓子がむだに終わりそうなのを感じ、その徒《いたず》らな難破に心を動かされて、激しい合い図の身振りをしたので、ようやく白鳥の注意をひいた。
 二羽の白鳥は何か浮いてるのを見つけ、まさしく船のように岸へ方向を変じ、菓子パンの方へ静かに進んできた。白い動物にふさわしいいかにもゆったりした威風だった。
「シーニュ([#ここから割り注]白鳥[#ここで割り注終わり])にはシーニュ([#ここから割り注]合い図[#ここで割り注終わり])がわかる。」と市民はその頓知《とんち》を得意そうに言った。
 その時、遠くの騒擾の響きはまた急に高まった。こんどはすごいように聞こえてきた。同じく一陣の風にも特にはっきりと意味を語るものがある。その時吹いてきた風は、太鼓のとどろきや鬨《とき》の声や一隊の兵の銃火の音や警鐘と大砲との沈痛な応答の響きなどを、はっきりと伝えていた。それとちょうど一致して、一団の黒雲がにわかに太陽を蔽うた。
 白鳥はまだ菓子パンに達していなかった。
「帰ろう。」と父は言った。「テュイルリーの宮殿が攻撃されてる。」
 彼はまた子供の手を取った。それから言い添えた。
「テュイルリーとリュクサンブールとは、皇族と貴族との間ぐらいしか離れていない。間は遠くない。鉄砲の弾が雨のように飛んでくるかも知れない。」
 彼は空の雲をながめた。
「そしてまた本当の雨も降りそうだ。空までいっしょになってる。ブランシュ・カデットは([#ここから割り注]若い枝は――ブールボン分家は[#ここで割り注終わり])挫《くじ》かれる。早く帰ろう。」
「白鳥がお菓子を食べる所が見たいなあ。」と子供は言った。
 父は答えた。
「そうしては不用心だ。」
 そして彼は自分の小さな市民を連れていった。
 子供は白鳥の方を残り惜しがって、五目形の植え込みの角《かど》に池が隠れるまで、その方を振り返ってながめた。
 そのうちに、白鳥と同時にふたりの浮浪の子供が菓子パンに近寄ってきた。菓子は水の上に浮いていた。弟の方は菓子をながめ、兄の方は去ってゆく市民をながめていた。
 父と子とは入りくんだ道をたどって、マダム街の方へ通ずる段をなした木の茂みにはいっていった。
 彼らの姿が見えなくなると、すぐに兄は、丸みをもった池の縁に腹ばいになり、左手でそこにしがみつきながら、ほとんど水に落ちそうになるほど身を乗り出し、右手を伸ばしてその杖を菓子の方へ差し出した。白鳥は競争者を見て急いだ。しかし急ぎながら胸をつき出したので、小さな漁夫にはそれがかえって仕合わせとなった。水は二羽の白鳥の前に揺れて退いた。そのゆるやかな丸い波紋の一つのために、菓子は静かに子供の杖の方へ押しやられた。白鳥がやってきた時に、杖は菓子に届いた。子供は一つ強くたたいてそれを引きよせ、白鳥をおどかし、菓子をつかみ取り、そして立ち上がった。菓子はぬれていたが、ふたりは腹がすき喉《のど》がかわいていた。兄はその菓子パンを、大きいのと小さいのと二つに割り、自分は小さい方を取り、大きい方を弟に与えて、こう言った。
「それをつめ込んでしまえ。」

     十七 死せる父死なんとする子を待つ

 マリユスは防寨《ぼうさい》から外に飛び出した。コンブフェールもそのあとに続いた。しかしもう間に合わなかった。ガヴローシュは死んでいた。コンブフェールは弾薬の籠《かご》を持ち帰り、マリユスはガヴローシュの死体を持ち帰った。
 彼は思った。ああ、父親が自分の父にしてくれたことを、自分は今その子に報いているのだ。ただ、テナルディエは生きた自分の父を持ち帰ってくれたが、自分は今彼の死んだ子を持ち帰っているのか。
 マリユスがガヴローシュを胸にかかえて角面堡《かくめんほう》に戻ってきた時、少年の顔と同じく彼の顔も血にまみれていた。
 ガヴローシュを抱き取ろうとしてかがんだ時、一弾が彼の頭をかすめた。彼はそれに自ら気づかなかった。
 クールフェーラックは自分の首飾りを解いて、マリユスの額を結わえてやった。
 人々はマブーフと同じテーブルの上にガヴローシュを横たえ、二つの死体の上に黒い肩掛けをひろげた。それは老人と子供とをおおうに足りた。
 コンブフェールは持ち帰った籠《かご》の弾薬を皆に分配した。
 各人に十五発分ずつあった。
 ジャン・ヴァルジャンはやはり標石の上に腰掛けたままじっとしていた。
 コンブフェールが十五発の弾薬を差し出した時、彼は頭を振った。
「まったく珍しい変人だ。」とコンブフェールは低い声でアンジョーラに言った。「この防寨《ぼうさい》にいて戦おうともしない。」
「それでも防寨を守ってはいる。」とアンジョーラは答えた。
「勇壮の方面にも奇人がいるわけだな。」とコンブフェールは言った。
 それを聞いたクールフェーラックも口を出した。
「マブーフ老人とはまた異なった種類の男だ。」
 ここにちょっと言っておかなければならないが、防寨は銃弾を浴びせられながら、その内部はほとんど乱されていなかった。こういう種類の戦いの旋風を横切ったことのない者は、その動乱に交じって妙に静穏な瞬間があることを、おそらく想到し得ないだろう。人々は行ききたり、語り、戯れ、ぶらぶらしている。霰弾《さんだん》の中でひとりの兵士が、「ここはまったく[#「ここはまったく」に傍点]独身者《ひとりもの》の朝飯のようだ[#「の朝飯のようだ」に傍点]」と言ったのを、実際耳にした男をわれわれは知っている。繰り返して言うが、シャンヴルリー街の角面堡《かくめんほう》の中は、至って静穏らしく見えていた。あらゆる事変や局面は、すべて通過し終わっていた、もしくは通過し終わらんとしていた。状況は危急なものから恐ろしいものとなり、恐ろしいものから更に絶望的なものとなろうとしていた。状況が暗澹《あんたん》となるに従って、勇壮な光はますます防寨《ぼうさい》を赤く染めていた。アンジョーラは若いスパルタ人が抜き身の剣を陰惨な鬼神エピドタスにささげるような態度で、おごそかに防寨に臨んでいた。
 コンブフェールは腹部に前掛けをつけて負傷者らの手当てをしていた。ボシュエとフイイーとはガヴローシュが上等兵の死体から取った火薬筒で弾薬を作っていたが、ボシュエはフイイーにこう言った、「われわれはじきに他の遊星へ旅立つんだ[#「われわれはじきに他の遊星へ旅立つんだ」に傍点]。」クールフェーラックは自分の場所としておいたアンジョーラの傍の舗石《しきいし》の上に、仕込み杖《づえ》や銃や二梃《にちょう》の騎馬用ピストルや一梃のポケット・ピストルなどを、まるで武器箱をひっくり返したようにして、若い娘が小さな裁縫箱を片づけるような注意でそれを整理していた。ジャン・ヴァルジャンは正面の壁を黙ってながめていた。ひとりの労働者はユシュルー上《かみ》さんの大きな麦稈帽子《むぎわらぼうし》を頭の上に紐《ひも》で結わえつけて、日射病にかかるといけねえ[#「日射病にかかるといけねえ」に傍点]などと言っていた。エークスのクーグールド結社に属する青年らは、最後にも一度|田舎言葉《いなかことば》を急いで口にしておこうと思ってるかのように、いっしょに集まって愉快そうにしゃべり合っていた。ジョリーはユシェルー上さんの鏡を取ってきて、それに映して自分の舌を検査していた。数人の戦士らは、ある引き出しの中にほとんど黴《かび》のはえたパン屑《くず》を見つけ出して、貪《むさぼ》るようにそれを食っていた。マリユスは死せる父が自分に何というであろうかと心を痛めてい
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