いは風紀衛兵の衛舎のすき間から逃げてきたのかも知れない。あるいは付近に、アンフェール市門か天文台の丘か、産表に包まれたる[#「産表に包まれたる」に傍点]嬰児《おさなご》([#ここから割り注]訳者注 幼児キリストのこと[#ここで割り注終わり])を彼らは見いだしぬ[#「を彼らは見いだしぬ」に傍点]という文字のある破風のそびえている近くの四つ辻《つじ》かに、ある興行師の小屋があって、そこから逃げ出してきたのかも知れない。あるいは前日の夕方、園の門がしめられる時番人の目をのがれて、人が新聞などを読む亭の中に一夜を過ごしたのかも知れない。それはとにかく事実を言えば、彼らは戸外に迷った身でありまた一見自由らしい身であった。しかし戸外に迷ってしかも自由らしいというのは、棄《す》てられたということである。あわれなふたりの子供は実際棄てられた者であった。
 このふたりの子供は、ガヴローシュが世話してやったあの子供たちで、読者は記憶しているだろう。テナルディエの児で、マニョンに貸し与えられ、ジルノルマン氏の児とされていたが、今は根のない枝から落ちた木の葉となり風のまにまに地上に転々していたのである。
 マニョンの家にいた当時はきれいで、ジルノルマン氏に対する広告とされていたその着物も、今ではぼろとなっていた。
 その後彼らは、「宿無し児」という統計のうちにはいることとなり、パリーの街路の上で、警察から調べられ捨てられまた見つけられるというような身の上になっていた。
 そのみじめな子供らがリュクサンブールの園の中にいたのも、かかる騒乱の日のおかげだった。もし番人らに見つかったら、ぼろ着物の彼らは追い出されたに違いない。貧しい子供は公の園囿《えんゆう》にははいることを許されていない。けれども、子供として彼らは花に対する権利を持っていることを、人はまず考うべきではないだろうか。
 ふたりの子供は、鉄門がしめられていたためそこにいることができた。彼らは規則を犯していた。園の中に忍び込みそこに止まっていた。鉄門が閉じたとて番人がいなくなるわけではなく、なお見張りは続けられているはずであるが、しかしおのずから気がゆるんで怠りがちになるものである。それに番人らもまた世間の騒ぎに心をひかれ、園の中よりも外の方に気を取られて、もう内部に注意していなかったので、従って二人の違犯者がいることにも気づかなかった。
 前日雨が降り、その日の朝も少し降った。しかし六月の驟雨《しゅうう》は大したことではない。暴風雨があっても、一時間とたつうちには、どこに雨が降ったかというようにからりと晴れてしまう。夏の地面は、子供の頬《ほお》と同じくすぐにかわきやすい。
 夏至に近いま昼の光は刺すがようである。それはすべてを奪い取る。執拗《しつよう》に地面にしがみついてすべてを吸い取る。太陽も喉がかわいてるかと思われる。夕立ちも一杯の水にすぎない。一雨くらいはすぐに飲み干される。朝はすべてに水がしたたっていても、午後にはすべてが砂塵《さじん》におおわれる。
 雨に洗われ日光に拭《ぬぐ》われた緑葉ほどみごとなものはない。それは暖かい清涼である。庭の木も牧場の草も、根には水を含み花には日を受け、香炉のようになって一時にあらゆるかおりを放つ。すべてが笑いのぞき出す。人は穏やかな酔い心地になる。初夏は仮りの楽園である。太陽は人の心をものびやかにする。
 そして、世にはこれ以上を何も求めない者がいる。ある気楽者らは、空の青いのを見て、これで充分だと言う。ある夢想家らは、自然の驚異に没頭して、自然を賛美するのあまり、善悪に対して無関心となる。ある宇宙の観照者らは、恍惚《こうこつ》として人事を忘れて、人は樹下に夢想し得るにかかわらず、甲の飢えや乙の渇《かわ》きや、貧しき者の冬の裸体、子供の脊髄《せきずい》の淋巴性彎曲《りんぱせいわんきょく》、煎餅蒲団《せんべいぶとん》、屋根裏、地牢《ちろう》、寒さに震える少女のぼろ、など種々のことになぜ心をわずらわすか、そのゆえんを了解しない。しかしそれらは、平穏なしかも恐ろしいしかも無慈悲にもひとり満足せる精神である。不思議にも彼らは、無限なるもののみをもって充分としている。人の最も必要とする抱擁し得らるるものを、有限なるものを、彼らは知らない。崇高な働きたる進歩をなし得る有限なるもののことを、彼らは考えない。無限なるものと有限なるものとの人為的および神為的結合から生ずる名状し難いものを、彼らは看過する。ただ無辺際なるものに面してさえおれば、彼らはほほえむ。かつて愉快を知らないが、常に恍惚としている。沈湎《ちんめん》することがその生命である。人類の歴史も彼らにとっては、ただの一|些事《さじ》にすぎない。その中にすべては含まっていない。真のすべて[#「すべて」に傍点]は外部にある。人間という些事に心を労して何の役に立つか。人間は苦しんでいるというが、あるいはそうかも知れない。しかしとにかく、アルデバラム星の上りゆくのをながめてみよ。母親は乳が出ず赤児は死にかかっているというが、そのようなことは自分の知るところではない。まあとにかく、一片の樅《もみ》の白木質が顕微鏡下に示すあの驚くべき薔薇形《ばらがた》の縞《しま》をながめてみよ。でき得るならば最もうるわしいマリーヌのレースをそれに比較してみるがいい! とそう彼らは言う。それらの思索家は愛することを忘れているのである。獣帯星座は彼らをして、泣く児に目を向けることを得ざらしむる。神は彼らの魂をおおい隠す。それは微小にして同時に偉大なる一群の精神である。ホラチウスはそのひとりであり、ゲーテはそのひとりであり、ラ・フォンテーヌもおそらくはそのひとりであった。実に無限なるもののみを事とする壮大なる利己主義者であり、人の悲しみに対する平然たる傍観者であって、天気さえ麗しければネロのごとき暴君をも意に介せず、日の光をのみ見て火刑場を眼中に置かず、断頭台上の処刑をながめてもただ光線の作用のみを気にし、叫び声もすすりなきの声も瀕死《ひんし》のうめきも警鐘の響きも耳にせず、五月であればすべてをよく思い、紅色と金色との雲が頭上にたなびく限りは満足だと称し、星の光と小鳥の歌とのつきるまでは幸福であるべく定められている。
 輝いたる暗黒なる人々である。彼らは自らあわれむべき者であるとは夢にも思わない。しかし彼らはまさしくあわれむべき者らである。涙を流さぬ者は目が見えない。眉《まゆ》の下に両眼を持たず額の中央に一個の星を持っている[#「一個の星を持っている」は底本では「一個の星を持つている」]、夜と昼とで同時にできてる者を、あわれみかつ賛嘆し得るとするならば、彼らこそあわれみかつ賛嘆すべき者らである。
 それら思想家の無関心は、ある者の説によれば、高遠なる哲理から来るものであるという。あるいはそうであるとしても、しかしその高遠さのうちには不具なる点がある。人は不死であるとともに跛足《びっこ》であり得る。神ヴルカヌスはその例である。人は人間以上であるとともに人間以下であり得る。自然のうちには広大なる不完全さも存する。太陽が盲目でないか否かをだれが知ろうぞ。
 しからばおよそ何を信頼すべきであるか。太陽は虐偽なりとあえて言い得べきか[#「太陽は虐偽なりとあえて言い得べきか」に傍点]。天才も、最高の人も、恒星たる人も、誤ることがあり得るのか。いと高きにある者、最高点にある者、頂にある者、中天にある者、地上に多くの光を送る者、彼らの目もわずかしか見えないのか、よく見えないのか、あるいはまったく見えないのか。それでは絶望のほかはないではないか。否。しからば太陽の上に何が存するのか。曰《いわ》く、神。
 一八三二年六月六日の午前十一時ごろ、人影もない寂しいリュクサンブールの園は麗しい様《さま》を呈していた。五目形に植えられた樹木や花壇の花は、日光のうちに香気や眩惑《げんわく》の気を送り合っていた。ま昼の光に酔うた枝々は、互いに相抱こうとしてるがようだった。シコモルの茂みの中には頬白《ほおじろ》が騒いでおり、雀《すずめ》は勇ましい声を立て、啄木鳥《きつつき》はマロニエの幹をよじ上って、樹皮の穴を軽く啄《つつ》き回っていた。花壇のうちには百合《ゆり》の花が、もろもろの花の王らしく咲き誇っていた。それも至当である、香気のうちにても最も尊厳なるものは純白から発するかおりである。石竹の鋭い匂《にお》いも漂っていた。マリー・ド・メディチの愛した古い小鳥も、高い樹木の中で恋を語っていた。チューリップの花は日の光を受けて、金色に紅色にまたは燃ゆるがようになり、あたかも花で作られた種々の炎に異ならなかった。その群咲《むれざ》きのまわりには蜂《はち》が飛び回って、炎の花から出る火花となっていた。すべては優美と快活とにあふれ、次にきたるべき雨さえもそうだった。再び来るその雨も、鈴蘭《すずらん》や忍冬《すいかずら》が恵みをたれるのみで、少しも心配なものではなかった。燕《つばめ》は見るも不安なほどみごとに低く飛んでいた。そこにある者は幸福の気を呼吸し、生命はよきかおりを発し、自然はすべて純潔と救助と保護と親愛と愛撫《あいぶ》と曙《あけぼの》とを発散していた。天より落ちて来る思想は、人が脣《くち》づけする小児の小さい手のようにやさしいものであった。
 木の下に立ってる裸体のまっ白な像は、点々と光の落ちた影の衣服をまとっていた。それらの女神は日光のぼろをまとっていたのである。光線はその四方へたれ下がっていた。大きな池のまわりは、焼けるかと思えるまでに地面がかわききっていた。わずかに風があって、所々に塵《ちり》の渦《うず》を立てていた。去年の秋から残ってる少しの黄色い落葉が互いに愉快げに追っかけ合って、戯れてるがようだった。
 豊かな光には何となく人の心を安らかならしむるものがあった。生命、樹液、暑気、蒸発気などは満ちあふれていた。万物の下にその源泉の大きさが感ぜられた。愛に貫かれてるそれらの息吹《いぶき》の中に、反照と反映との行ききの中に、光の驚くべき濫費《らんぴ》の中に、黄金の液の名状し難い流出の中に、無尽蔵者の浪費が感ぜられた。そしてその光輝のうしろには、炎の幕のうしろにおけるがように、無数の星を所有する神がかすかに認め得らるるのであった。
 砂がまかれてるために一点の泥土もなかった、また雨が降ったために一握の塵埃《じんあい》もなかった。草木の茂みは洗われたばかりの所だった。あらゆる種類のビロードや繻子《しゅす》や漆《うるし》や黄金は、花の形をして地からわき出て、一点の汚れも帯びていなかった。壮麗であるとともに瀟洒《しょうしゃ》だった。楽しき自然の沈黙が園に満ちていた。その天国的な沈黙とともに、巣の中の鳩《はと》の鳴き声、群蜂《ぐんぽう》の羽音、風のそよぎなど、無数の音楽が聞こえていた。季節の調和は全体を一団の麗しいものに仕上げていた。春の来去は適当な順序でなされていた。ライラックの花は終わりに近づき、素馨《ジャスミン》の花は咲きそめていた。ある花が遅れていると、その代わりにある昆虫が早めに出ていた。六月の前衛たる赤い蝶《ちょう》は、五月の後衛たる白い蝶と相交わっていた。篠懸《すずかけ》は新しい樹皮をまとっていた。マロニエのみごとな木立ちは微風に波打っていた。実にそれは光り輝いた光景であった。近くの兵営の一老兵士は、鉄門から園の中をのぞいて言った、「正装した春だ。」
 自然はすべて朝食にかかっていた。万物は食卓についていた。今はちょうどその時刻だった。青い大きな卓布が空にかけられ、緑の大きな卓布が地にひろげられていた。太陽は煌々《こうこう》と輝いていた。神はすべてに食事を供していた。あらゆるものは各自の秣《まぐさ》や餌《え》を持っていた。山鳩《やまばと》には麻の実があり、鶸《ひわ》には黍《きび》があり、金雀《かなりや》には※[#「くさかんむり/繁」、第3水準1−91−43]※[#「くさかんむり/婁」、第3水準1−91−21]《はこべ》があり、駒鳥《こまどり》には虫があり
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