やむを得ない場合には読者を婚姻の室《へや》に導くことはできるが、処女の室に導くことははばかられる。それは韻文においてもでき難いことであるが、散文においてはなおさらである。
処女の室は、まだ開かぬ花の内部である、闇《やみ》の中の白色である、閉じたる百合《ゆり》のひそやかな房《へや》で、太陽の光がのぞかぬうちは人がのぞいてはならないものである。蕾《つぼみ》のままでいる婦人は神聖なものである。自らあらわなるその清浄な寝床、自らおのれを恐れる尊い半裸体、上靴《うわぐつ》の中に逃げ込む白い足、鏡の前にも人の瞳《ひとみ》の前かのように身を隠す喉元《のどもと》、器具の軋《きし》る音や馬車の通る音にも急いで肩の上に引き上げられるシャツ、結わえられたリボン、はめられた留め金、締められた紐《ひも》、かすかなおののき、寒さや貞節から来る小さな震え、あらゆる動きに対するそれとなき恐れ、気づかわしいもののないおりにも常に感ずる軽やかな不安、暁の雲のように麗しいそれぞれの衣服の襞《ひだ》、すべてそれらのものは語るにふさわしいものではない。それを列挙するだけで既に余りあるのである。
人の目は、上りゆく星に対するよりも起き上がる若き娘の前に、いっそう敬虔《けいけん》でなければならない。手を触れることができるだけに、いっそうそっとしておくべきである。桃の実の絨毛《じゅうもう》、梅の実の粉毛、輻射状《ふくしゃじょう》の雪の結晶、粉羽におおわれてる蝶の翼、などさえも皆、自らそれと知らない処女の純潔さに比ぶれば、むしろ粗雑なものにすぎない。若き娘は夢にすぎなくて、まだ一つの像ではない。その寝所は理想のほの暗い部分のうちに隠れている。不注意な一瞥《いちべつ》はその漠《ばく》たる陰影を侵害する。そこにおいては観照も冒涜《ぼうとく》となる。
それでわれわれは、コゼットが目をさましたおりのその香ばしい多少取り乱れた姿については、少しも筆を染めないでおこう。
東方の物語が伝えるところによると、薔薇《ばら》の花は神からまっ白に作られたが、まさに開かんとする時アダムにのぞかれたので、それを羞《は》じて赤くなったという。われわれは若き娘と花とを尊むがゆえに、その前においては無作法な言を弄《ろう》し得ないのである。
コゼットは急いで装いをし、髪を梳《す》きそれを結んだ。当時の婦人は、入れ毛や芯《しん》などを用いて髷《まげ》や鬢《びん》をふくらすことをせず、髪の中に座型を入れることはなかったので、髪を結うのもごく簡単だった。それからコゼットは窓をあけ、方々を見回して、街路の一部や家の角《かど》や舗石《しきいし》の片すみなどを見ようとし、マリユスの姿が現われるのを待とうとした。しかし窓からは表は少しも見えなかった。その後庭はかなり高い壁でとり囲まれて、幾つかの表庭が少し見えるきりだった。コゼットはそれらの庭を憎らしく思い、生まれて始めて花を醜いものに思った。四つ辻《つじ》の溝《みぞ》の一端でも今は彼女の望みにいっそう叶《かな》うものだったろう。彼女は気を取り直して、あたかもマリユスが空から来るとでも思ってるように空をながめた。
すると、たちまち彼女は涙にくれた。変わりやすい気持ちのせいではなくて重苦しいものに希望の糸が切られたからだった。彼女はそういう地位にあった。彼女は何とも知れぬ恐怖を漠然《ばくぜん》と感じた。実際種々のことが空中に漂っていた。何事も確かなことはわからぬと思い、互いに会えないことは互いに失うことだと思った。そしてマリユスが空から戻って来るかも知れないという考えは、もはや喜ばしいものではなく悲しいもののように思われた。
それから、かかる暗雲の常として、静穏の気が彼女の心にまた起こってき、希望の念と、無意識的なそして神に信頼した微笑とが、心に起こってきた。
まだ家中は眠っていた。あたりは田舎《いなか》のように静かだった。窓の扉《とびら》は一つも開かれていず、門番小屋もしまっていた。トゥーサンはまだ起きていなかったし、父も眠っているのだとコゼットは自然思った。彼女は非常に苦しんだに違いない、また今もなお苦しんでいたに違いない、なぜなら、父が意地悪いことをしたと考えていたからである。しかし彼女はマリユスが必ず来ると思っていた。あれほどの光明が消えうせることは、まったくあり得べからざることだった。彼女は祈った。ある重々しい響きが時々聞こえていた。こんなに早くから大門を開けたりしめたりするのはおかしい、と彼女は言った。しかしそれは、防寨《ぼうさい》を攻撃してる大砲の響きだった。
コゼットの室《へや》の窓から数尺下の所、壁についてるまっ黒な古い蛇腹《じゃばら》の中に、燕《つばめ》の巣が一つあった。巣のふくれた所が蛇腹から少しつき出ていて、上からのぞくとその小さな
前へ
次へ
全155ページ中19ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング