「そうだ、」とコンブフェールは言った、「しかしだれが取りに行くんだ?」
 実際蒲団は防寨の外に、防御軍と攻囲軍との間に落ちたのである。しかるに砲兵軍曹の死に殺気立った兵士らは、少し以前から、立てられた舗石《しきいし》の掩蔽線《えんぺいせん》の後ろに腹ばいになり、砲手らが隊伍を整えてる間の大砲の沈黙を補うため、防寨《ぼうさい》に向かって銃火を開いていた。暴徒らの方は、弾薬をむだにしないようにそれには応戦しなかった。銃弾は防寨に当たって砕け散っていたが、街路はしきりに弾が飛んで危険だった。
 ジャン・ヴァルジャンは防寨の切れ目から出て、街路にはいり、弾丸の雨の中を横ぎり、蒲団《ふとん》の所まで行き、それを拾い上げ、背中に引っかけ、そして防寨の中に戻ってきた。
 彼は自らその蒲団を防寨の切れ目にあてた。しかも砲手らの目につかぬよう壁によせて掛けた。
 かくして一同は霰弾《さんだん》を待った。
 やがてそれはきた。
 大砲は轟然《ごうぜん》たる響きとともに一発の霰弾を吐き出した。しかしこんどは少しもはね返らなかった。弾は蒲団の上に流れた。予期の効果は得られた。防寨の人々は無事であった。
「共和政府は君に感謝する。」とアンジョーラはジャン・ヴァルジャンに言った。
 ボシュエは驚嘆しかつ笑った。彼は叫んだ。
「蒲団にこんな力があるのは怪《け》しからん。ぶつかる物に対するたわむ物の勝利だ。しかしとにかく、大砲の勢いをそぐ蒲団は光栄なるかなだ。」

     十 黎明《れいめい》

 ちょうどこの時刻に、コゼットは目をさました。
 彼女の室は狭く小ぎれいで奥まっていた。家の後庭に面して、東向きの細長い窓が一つついていた。
 コゼットはパリーにどんなことが起こってるか少しも知らなかった。彼女は前夜外に出なかったし、「騒ぎがもち上がってるようでございますよ」とトゥーサンが言った時には、もう自分の室《へや》に退いていた。
 コゼットは少しの間しか眠らなかったが、その間は深く熟睡した。彼女は麗しい夢を見た。それはおそらく小さな寝台が純白であったせいも多少あろう。マリユスらしいだれかが、光のうちに彼女に現われた。彼女は目に太陽の光がさしたので目ざめた。そして初めはそれもなお夢の続きのような気がした。
 夢から出てきたコゼットの最初の考えは、喜ばしいものだった。彼女の心はすっかり落ち着いていた。数時間前のジャン・ヴァルジャンと同じく彼女も、不幸を絶対にしりぞけようとする心的反動のうちにあった。なぜともなく全力をつくして希望をいだきはじめた。それから突然悲しい思いが起こってきた。――この前マリユスに会ってからもう三日になっていた。しかし彼女は自ら考えた。マリユスは自分の手紙を受け取ったに違いない、自分のいる所を知ったはずである、知恵のある人だから、どうにかして自分の所へきてくれるだろう。――そしてそれも確かに今日だろう、今朝かも知れない。――もうすっかり明るくなっていたが、日の光は横ざまに流れていた。まだごく早いんだろうと彼女は思った。けれどもとにかく起きなければならなかった、マリユスが来るのを迎えるために。
 彼女はマリユスなしには生きておれないような気がした。そしてそれでもう充分だった。マリユスはきっと来るだろう。こないという理由は少しも認められなかった。来ることは確かだった。三日間も苦しむのは既に恐ろしいことだった。三日もマリユスに会わせないとは神様もあまりひどすぎた。けれど今は、神の残酷な悪戯たる試練もきりぬけてきたし、マリユスはきっといい消息を持ってきつつあるに違いなかった。実に青春とはそうしたものである。青春はすぐに目の涙をかわかす。悲しみを不用なものとして、それを受け入れない。青春はある未知の者の前における未来のほほえみである、しかもその未知の者は青春自身である。それが幸福であるのは自然である。その息はあたかも希望でできてるかのようである。
 その上コゼットは、マリユスがやってこないのはただ一日だけだというそのことについて、彼がどんなことを言ったか、またどんな説明をしたか、それを少しも思い出すことができなかった。地に落とした一個の貨幣がいかに巧みに姿を隠すか、そしていかにうまく見えなくなってしまうかは、人の皆知るところである。観念のうちにもそういうふうに人をたぶらかすものがある。一度頭脳の片すみに潜んでしまえば、もうおしまいである、姿が見えなくなってしまう、記憶で取り押さえることができなくなる。コゼットも今、記憶を働かしてみたが少しも効がないのにじれていた。マリユスが言った言葉を忘れてしまったのは、不都合なことであり済まないことであると、彼女は思った。
 彼女は寝床から出て、魂と身体と両方の斎戒を、すなわち祈祷《きとう》と化粧とをした。

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