はいっています。私はそれに手をつけないでいます。それは貧しい人たちにやるためのものです。コゼット、その寝台の上にお前の小さな長衣があるでしょう。お前はあれを覚えていますか。まだあの時から十年にしかならない。時のたつのは実に早いものだ。私たちはごく幸福だった。がもうすべて済んでしまった。ふたりとも泣くにはおよばない。私はごく遠くへ行くのではない。向こうからお前たちの方を見ていよう。お前たちは夜になってただながめさえすればよい、私がほほえんでいるのがわかるだろう。コゼット、お前はモンフェルメイュを覚えていますか。お前は森の中にいて、大変|恐《こわ》がっていた。私が水桶《みずおけ》の柄を持ってやった時のことを、まだ覚えていますか。私がお前の小さな手に触《さわ》ったのは、それが始めてだった。ほんとに冷たい手だった。ああ、その頃、その手はまっかだったが、今では大変白くなっている。それから大きな人形、あれも覚えていますか。お前はあれにカトリーヌという名前をつけていた。あれを修道院に持っていかなかったことを、お前は残念がっていたものだ。お前は幾度私を笑わしたことだろう。雨が降ると、溝《みぞ》の中に藁屑《わらくず》を浮かべて、それが流れてゆくのを見ていた。ある時私は、柳編みの羽子板《はごいた》と、黄や青や緑の羽毛のついた羽子《はね》とを、お前に買ってやったことがある。お前はもう忘れているでしょう。お前はごく小さい時はほんとにいたずらだった。いろんなわるさをしていた。自分の耳に桜ん坊を入れてしまったこともある。しかしそれはみな過去のことだ。人形を抱いて通った森、歩き回った木立ちの中、身を隠した修道院、いろんな遊びごと、他愛もない大笑い、それらはみな影にすぎなくなっている。私はそういうものがみな自分のものだと思っていた。しかし私のばかげた考えだった。またあのテナルディエ一家の者は、みな悪者だった。しかしそれは許してやらなければいけない。コゼット、今ちょうどお前の母親の名前を言ってきかせる時がきた。お前の母親は、ファンティーヌという名前である。その名前をよく覚えておきなさい、ファンティーヌだ。それを口にするたびごとにひざまずかなくてはいけない。あの人は非常に難儀をした。お前を大変かわいがっていた。お前が幸福な目にあったのと、ちょうど同じくらい不幸な目に会った。それが神の配剤である。神は天にあって、われわれ皆の者を見られ、大きな星の間にあって自分の仕業《しわざ》を知っていられる。私はもう逝《い》ってしまう。ふたりとも、常によく愛し合いなさい。世の中には、愛し合うということよりほかにはほとんど何もない。そして時々は、ここで死んだあわれな老人の事を考えて下さい。おおコゼットや、この頃お前に会わなかったといっても、それは私の罪ではない。そのために私はどんなに苦しんだろう。私はよくお前が住んでいる街路の角《かど》まで出かけて行った。私が通るのを見た人たちは、きっと変に思ったに違いない。私は気ちがいのようになっていた。ある時などは帽子もかぶらないで出かけて行ったものだ。おお私のふたり、私はもうこれで目もはっきり見えない。まだ言いたいこともたくさんあるが、もうそれはどうでもよい。ただ私のことを少し考えておくれ。お前たちは祝福された人たちだ。私はもう自分で自分がよくわからない。光が見える。もっと近くにおいで。私は楽しく死ねる。お前たちのかわいい頭をかして、その上にこの手を置かして下さい。」
 コゼットとマリユスとは、そこにひざまずき、我を忘れ、涙にむせび、ジャン・ヴァルジャンの両手に各々すがりついた。そのおごそかな手はもはや動かなかった。
 彼はあおむけに倒れた。二つの燭台《しょくだい》から来る光が彼を照らしていた。その白い顔は天の方をながめ、その両手はコゼットとマリユスとの脣《くち》づけのままになっていた。彼は死んでいた。
 夜は星もなく、深い暗さだった。必ずやその影の中には、ある広大なる天使が、魂を待ちながら翼をひろげて立っていたであろう。

     六 草は隠し雨は消し去る

 ペール・ラシェーズの墓地の、共同埋葬所のほとり、その墳墓の都のりっぱな一郭から遠く離れ、永遠の面前に死の醜い様式をひろげて見せている種々工夫を凝らされた石碑の、立ち並んでる所から遠く離れ、寂しい片すみの、古い壁の傍《そば》、旋花《ひるがお》のからんだ一本の大きな水松《いちい》の下、茅草《かやくさ》や苔《こけ》のはえている中に、一基の石がある。その石もまた、他の石と同じく、長い年月の傷害や苔や黴《かび》や鳥の糞《ふん》などを免れてはいない。水のために緑となり、空気のために黒くなっている。近くには小道もなく、草が高く茂っていてすぐに足をぬらすので、その方へ踏み込んでみようとする人もない
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