の人に向かってこう言わないではおられなかった。
「牧師様をお呼びしましょうか。」
「牧師様はひとりおられる。」ジャン・ヴァルジャンは答えた。
そして彼は指で、頭の上の一点を指し示すようなふうをした。おそらく彼の目には、そこに何者かの姿を見ていたのであろう。
実際ミリエル司教がその臨終に立ち会っていられたかも知れない。
コゼットは静かに彼の腰の下に枕をさし入れた。
ジャン・ヴァルジャンはまた言った。
「ポンメルシーさん、どうか気使わないで下さい。あの六十万フランはまさしくコゼットのものです。もしあなたがあれを使われなければ、私の生涯はむだになってしまうでしょう。私どもはそのガラス玉製造に成功したのでした。ベルリン玉と言われてるのと対抗しました。ドイツの黒玉も到底かないはしません。ごくよくできた玉の千二百もはいってる大包みが、わずかに三フランしかしないのです。」
大事な人がまさに死なんとする時には、人はその人にしがみついて引き止めようとする目つきで、それを見つめるものである。ふたりとも、心痛の余り黙然として、死に対して何と言うべきかを知らず、絶望し身を震わしながら、コゼットの方はマリユスに手を取られ、ふたりで彼の前にじっと立っていた。
刻々にジャン・ヴァルジャンは弱っていった。彼はしだいに沈んでいって、暗黒な地平に近づきつつあった。呼吸は間歇的《かんけつてき》になり、わずかな残喘《ざんぜん》にも途切らされた。もはや前腕の位置を変えるのも容易でなくなり、両足はまったく動かなくなり、そして手足のみじめさと身体の疲憊《ひはい》とが増すとともに、魂の荘厳さが現われてきて、額の上にひろがってきた。他界の光は既にその眸《ひとみ》の中に明らかに宿っていた。
彼の顔は蒼白《そうはく》になり、同時にまたほほえんでいた。もはやそこには生命の影はなくて、他のものがあった。呼吸は微弱になり、目は大きくなっていた。それは翼が感ぜらるる死骸《しがい》であった。
彼はそばに来るようにコゼットに合い図をし、次にマリユスに合い図をした。明らかに臨終の最後の瞬間だった。そして彼は、遠くから来るかと思われるような声で、ふたりと彼との間には既に壁ができてるかと思われるようなかすかな声で、ふたりに話しかけた。
「近くにおいで、ふたりとも近くにおいで。私はお前たちふたりを深く愛する。ああ、こうして死ぬのは結構なことだ。コゼット、お前もまた私を愛してくれるね。私は、お前がいつもお前の老人《としより》に愛情を持っていてくれたことを、よく知っていた。私の腰の下にこの括《くく》り蒲団《ふとん》を入れてくれるとは、何というやさしいことだろう。お前は私の死を、少しは泣いてくれるだろうね。あまり泣いてはいけない。私はお前がほんとに悲しむことを望まない。お前たちふたりはたくさん楽しまなければいけない。それから私は、あの締金のない金環で何よりもよく儲《もう》かったことを、言い忘れていた。十二ダース入りの大包みが十フランでできるのに、六十フランにも売れた。まったくよい商売だった。だから、ポンメルシーさん、あの六十万フランも驚く程のことではありません。正直な金です。安心して金持ちになってよろしいのです。馬車も備え、時々は芝居の桟敷《さじき》も買い、コゼットは美しい夜会服も買うがいいし、それから友人たちにごちそうもし、楽しく暮らすがいい。私はさっきコゼットに手紙を書いておいた。どこかにあるはずだ。それから私は、暖炉の上にある二つの燭台《しょくだい》を、コゼットにあげる。銀であるが、私にとっては、金《きん》でできてると言ってもいいし、金剛石でできてるといってもいい品である。立てられた蝋燭《ろうそく》を聖《きよ》い大蝋燭に変える力のある燭台だ。私にあれを下すった人が、果たして私のことを天から満足の目で見て下さるかどうかは、私にもわからない。ただ私は自分でできるだけのことはした。お前たちはふたりとも、私が貧しい者であるということを忘れないで、どこかの片すみに私を葬って、ただその場所を示すだけの石を上に立てて下さい。それが私の遺言である。石には名前を刻んではいけない。もしコゼットが時々きてくれるなら、私は大変喜ぶだろう。あなたもきて下さい、ポンメルシーさん。私は今白状しなければなりませんが、私はいつもあなたを愛したというわけではなかった。それは許して下さい。けれど今は、彼女とあなたとは、私にとってただひとりの者です。私はあなたに深く感謝しています。私はあなたがコゼットを幸福にして下さることをはっきり感じています。ああ、ポンメルシーさん、彼女の美しい薔薇色《ばらいろ》の頬《ほお》は私の喜びでした。少しでも色が悪いと、私は悲しかったものです。それから、戸棚《とだな》の中に五百フランの紙幣が一枚
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