の人を告発し捕縛させ、その捕縛に乗じてパリーにやってき、偽署をしてラフィット銀行から――この事実はその銀行の出納係から直接に聞いたことだ――マドレーヌ氏のものである五十万以上の金額を引き出してしまった。そのマドレーヌ氏の金を奪った囚人というのが、すなわちジャン・ヴァルジャンである。またも一つの事実についても、僕は何も君から聞く必要はない。ジャン・ヴァルジャンは警官ジャヴェルを殺した。ピストルで殺した。かく言う僕がその場にいたのだ。」
 テナルディエは厳然たる一瞥《いちべつ》をマリユスに投げた。あたかも一度打ち負けた者が再び勝利に手をつけ、失っていた地歩を一瞬間のうちに取り戻したかのようだった。しかしまたすぐに例の微笑が現われた。上位の者に対しては、下位の者はただ気兼ねした勝利をしか持ち得ないものである。テナルディエはただこれだけマリユスに言った。
「男爵は、何だか筋道が違っていますようですが。」
 そう言いながら彼は、時計の飾り玉を意味ありげにひねくってそれに力を添えた。
「なに!」とマリユスは言った、「君はそれに抗弁するのか。それは実際の事実だ。」
「いえ、譫言《うわごと》みたいなものです。男爵も打ち明けて言われましたから、私の方でも打ち明けて申しましょう。何よりもまず真実と正義とが第一です。私は不正な罪を被ってる者を見るのを好みません。男爵、ジャン・ヴァルジャンはマドレーヌ氏のものを盗んではいません。ジャン・ヴァルジャンはジャヴェルを殺してはいません。」
「何だと! それはどうしてだ?」
「二つの理由からです。」
「どういう理由だ? 言ってみなさい。」
「第一はこうです。彼はマドレーヌ氏のものを盗んだというわけにはなりません、ジャン・ヴァルジャン自身がマドレーヌ氏であるからには。」
「何を言うんだ。」
「そして第二はこうです。彼はジャヴェルを殺したはずはありません、ジャヴェルを殺したのはジャヴェル自身であるからには。」
「と言うと?」
「ジャヴェルは自殺したのです。」
「証拠があるか、証拠が!」とマリユスは我を忘れて叫んだ。
 テナルディエはあたかも古詩の句格めいた調子で言った。
「警官……ジャヴェルは……ポン・トー・シャンジュの橋の……小船の下に……おぼれて……いました。」
「それを証明してみなさい!」
 テナルディエは腋《わき》のポケットから、大きな灰色の紙包みを取り出した。種々の大きさにたたんだ紙が中にはいっているらしく見えた。
「私は記録を持っています。」と彼は落ち着いて答えた。
 そしてまた言い添えた。
「男爵、私はあなたのために、このジャン・ヴァルジャンのことをすっかり探り出そうと思いました。私はジャン・ヴァルジャンとマドレーヌとは同一人であると申しましたし、ジャヴェルを殺したのはジャヴェル自身にほかならないと申しましたが、そう申すにはもとより証拠があってのことです。しかも手で書いた証拠ではありません。書いたものは疑うこともでき、またどうにでもなるものです。けれども私が持ってるのは、印刷した証拠物であります。」
 そう言いながらテナルディエは、黄ばみがかって色が褪《あ》せてしかも強い煙草《たばこ》のにおいがする二枚の新聞紙を、包みの中から引き出した。そのうちの一枚は、折り目が破れて四角な紙片に切れており、も一枚のよりずっと古いものらしかった。
「二つの事実と二つの証拠です。」とテナルディエは言った。そして彼はひろげた二枚の新聞紙をマリユスに差し出した。
 その二枚の新聞は、読者の知ってるものである。古い方のは、一八二三年七月二十五日のドラポー・ブラン紙の一枚であって、その記事は本書の第二部第二編第一章で読者が見たとおり、マドレーヌ氏とジャン・ヴァルジャンとが同一人である事を証明するものだった。もう一枚は、一八三二年六月十五日の機関紙であって、ジャヴェルの自殺を証明し、なおジャヴェルが自ら警視総監に語った口頭の報告が添えてあった。その報告によれば、ジャヴェルはシャンヴルリー街の防寨《ぼうさい》で捕虜になったが、ひとりの暴徒がピストルをもって彼を手中のものにしながら、彼の頭を射|貫《ぬ》かないで空に向けて発射し、その寛大なはからいのために一命を助かったというのだった。
 マリユスは読んだ。その中には明らかな事実があり、確かな日付けがあり、疑うべからざる証拠があった。その二枚の新聞紙は、テナルディエが自説を支持するためにことさら印刷さしたものではなかった。機関紙に掲げられた記事は、警視庁から公《おおやけ》に発表したものだった。マリユスも疑う余地を見いださなかった。銀行の出納係が伝えた話はまちがっていて、彼自身も誤解をしていたのだった。ジャン・ヴァルジャンはにわかに偉大なものとなって、雲の中から現われてきた。マリユスは
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