礼の跡を探らせ、また自分でも種々|穿鑿《せんさく》して、ついに多くのことを知るに至り、自分は暗黒の底にいながら、秘密の糸口を数多つかみ得た。そしてある日大|溝渠《こうきょ》の中で出会った男がいかなる人物であったかを、狡智《こうち》によって発見した、あるいは少なくとも帰納的に察知し得た。その名前までも容易に推察した。また、ポンメルシー男爵夫人はコゼットであることをも知っていた。そしてこの方面では、慎重に差し控えた方がいいと思った。コゼットは何者であるか? それは彼にもよくわからなかった。私生児であることは漠然《ばくぜん》とわかっていた。がファンティーヌの話にはどうも怪しいふしがあるように思われた。それを話して何の役に立とう、その口止め料をもらうためにか? 否彼は、それよりも更によい売り物を持っていた、あるいは持ってると思っていた。それに、何らの証拠もなくただ推察だけで、「あなたの夫人は私生児です[#「あなたの夫人は私生児です」に傍点]」とポンメルシー男爵に告げたところで、それはただ夫《おっと》の激怒を買うに過ぎなかったろう。
テナルディエの考えでは、マリユスとの会話はまだ始まったとも言えないものであった。もとより彼は、一旦退却し、戦略を改め、陣を撤し、方向を変えなければならなかった。けれども、大事な点はまだ先方に知られていないし、ポケットには五百フランせしめていた。その上、いざとなれば言うべきことも持っていたので、深い知識といい武器とをそなえてるポンメルシー男爵に対してもなお、自分の方に強味があると感じていた。テナルディエのような者にとっては、一々の会話が皆戦闘である。さて今始めんとする戦闘においては、彼の地位はどういうものであったか? 彼は相手がいかなる人物であるかを知らなかった、しかし問題がいかなるものであるかを知っていた。彼はすみやかに、自分の武力を心の中で調べてみて、「私はテナルディエです[#「私はテナルディエです」に傍点]」と言った後、先方の様子を待ってみた。
マリユスは考えに沈んでいた。彼はついにテナルディエを捕《つかま》えたのである。あれほど見つけ出したいと思っていた男が、今目の前にいるのだった。彼はポンメルシー大佐の要求を果たすことができるのだった。あの英雄がこの悪漢に多少なりとも恩を受けていること、墓の底から父が彼マリユスに向かって振り出した手形は今にまだ支払われていないこと、それに彼は屈辱を感じていた。そしてまた、テナルディエに対して複雑な精神状態の中にありながら彼は、大佐がかかる悪漢に救われた不幸について、返報してやる所がなければならないように考えられた。しかしそれはとにかく、彼は満足であった。今や、かかる賤《いや》しい債権者から大佐の影を解き放してやる時がきたのだった。負債の牢獄《ろうごく》から父の記憶を引きぬいてしまう時がきたのだった。
そういう義務のほかに、彼にはも一つなすべきことがあった。もしできるならばコゼットの財産の出所を明らかにすることだった。今ちょうどその機会がきたように思われた。テナルディエはおそらく何か知ってるに違いなかった。この男を底まで探りつくしたら何かの役に立つかも知れなかった。で彼はまずそれから始めた。
テナルディエはその「いい代物《しろもの》」を内隠しにしまい込んで、ほとんど媚《こ》びるようにおとなしくマリユスをながめていた。
マリユスは沈黙を破った。
「テナルディエ、僕は君の名前を言ってやった。そして今また、君のいわゆる秘密、君が僕に知らせようと思ってきたものを、僕から言ってもらいたいのか? 僕もいろいろ知ってることがある。君よりもくわしく知ってるかも知れない。ジャン・ヴァルジャンは、君が言うとおり、人殺しで盗人だ。マドレーヌ氏という富有な工場主を破滅さしてその金を盗んだから、盗人である。警官ジャヴェルを殺害したから、人殺しである。」
「何だかよくわかりかねますが、男爵。」とテナルディエは言った。
「ではよくわからしてあげよう。聞きなさい。一八二二年ごろ、パ・ド・カレー郡に、ひとりの男がいた。彼は以前少しく法律に問われたことのある者だったが、マドレーヌ氏という名前で身を立て名誉を回復していた。まったく一個の正しい人間となっていた。そしてある工業で、黒ガラス玉の製造で、全市を繁昌さした。自分の財産もできたが、それは第二の問題で、言わば偶然にできたのである。それから彼は貧しい人たちの養い親となった。病院を建て学校を開き、病人を見舞い、娘には嫁入じたくをこしらえてやり、寡婦《やもめ》には暮らしを助けてやり、孤児は引き取って育ててやった。ほとんどその地方の守り神だった。彼は勲章を辞退したが、ついに市長に推された。ところがひとりの放免囚徒が、その人の旧悪の秘密を知っていて、そ
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