喜びの叫びを自らおさえることができなかった。
「それでは、あのあわれむべき男は、驚くべきりっぱな人物だったのか! あの財産はまったく彼自身のものだったのか! 一地方全体の守護神たるマドレーヌであり、ジャヴェルの救い主たるジャン・ヴァルジャンであるとは! 実に英雄だ、聖者だ!」
「いえあの男は、聖者でも英雄でもありません。」とテナルディエは言った。「人殺しで盗賊です。」
 そして彼は自らある権威を感じ始めたような調子で付け加えた。「落ち着いてお話しましょう。」
 盗賊、人殺し、もはや消え去ったと信じていたらそれらの言葉が再び現われて落ちかかってきたので、マリユスは氷の雨に打たれるような思いがした。
「それでもやはり!」と彼は言った。
「そうですとも。」とテナルディエは言った。「ジャン・ヴァルジャンはマドレーヌのものを盗みはしませんでしたが、やはり盗賊です。ジャヴェルを殺しはしませんが、やはり人殺しです。」
「君はあの、」とマリユスは言った、「四十年前の盗みを言うのだろう。あれならば、その新聞にもあるとおり、悔悟と克己と徳操との生涯で贖《あがな》われている。」
「男爵、私は殺害と窃盗と申すのです。しかも繰り返して言いますが、現在の事実です。あなたにこれからお知らせいたしますことは、まったくだれも知らないことであります。まだ世間に発表されていないことであります。そしてたぶんあなたは、ジャン・ヴァルジャンから巧みに男爵夫人へ贈られた財産の出所も、それでおわかりになりますでしょう。私は特に巧みにと申しますが、実際そういう種類の寄贈によって、名誉ある家にもぐり込み、その安楽にあずかり、同時にまた、自分の罪悪を隠し、盗んだものをおもしろく使い、名前を包み、家庭の人となるのですから、まあまずいやり方ではありません。」
「そう言うなら、僕にも言うべきことがある。」とマリユスは口を入れた。「だがまあ続けて話してみなさい。」
「男爵、私はあなたにすべてを包まず申しましょう。報酬の方は、あなたの寛大なおぼしめしにお任せいたします。その秘密は黄金《こがね》の山を積んでもよろしいものです。こう申しますと、なぜジャン・ヴァルジャンの方へ行かないのかと言われるかも知れませんが、それはごく簡単な理由からであります。彼がすっかり金を出してしまったことを、しかもあなたのために出してしまったことを、私は存じております。そのやり方は実に巧《うま》いものだと思います。ところで彼はもう一文も持ってはいませんので、ただ私に空《から》っぽの手を開いて見せるほかはありますまい。それに私は、ジョヤまで行くのに少し金がいりますので、何も持たない彼の所よりも、何でも持っておいでになるあなたの方へ参ったのであります。ああ少し疲れましたから、どうか椅子《いす》にすわることを許して下さい。」
 マリユスは腰をおろし、彼にもすわるように身振りをした。
 テナルディエはボタン締めの椅子《いす》に腰をおろし、二枚の新聞紙を取り、それを包み紙の中にまたたたみ込みながら、ドラポー・ブラン紙を爪《つめ》ではじいてつぶやいた、「こいつ、手に入れるのにずいぶん骨を折らせやがった。」それから彼は膝《ひざ》を重ね、椅子の背によりかかった。自分の語ろうとする事に対して安心しきってる者が取る態度である。そしていよいよ、落ち着き払い一語一語力を入れて、本題にとりかかった。
「男爵、今からおおよそ一年ばかり前、一八三二年六月六日、あの暴動のありました日、パリーの大下水道の中に、アンヴァリード橋とイエナ橋との間のセーヌ川への出口の所に、ひとりの男がいました。」
 マリユスはにわかに自分の椅子を、テナルディエの椅子に近寄せた。テナルディエはその動作に目を注いで、相手の心をとらえ一語一語に相手の胸のとどろきを感ずる弁士のように、おもむろに続けていった。
「その男は、政治とは別なある理由のために身を隠さなければならないので、下水道を住居として、そこへはいる鍵《かぎ》を持っていました。重ねて申しますが、それは六月六日でした。晩の八時ごろだったでしょう。その男は、下水道の中に物音を聞いて、非常に驚き、身を潜めて待ち受けました。物音というのは人の足音で、何者かが暗闇《くらやみ》の中を歩いて、彼の方へやってきました。不思議なことに、彼以外にもひとり下水道の中にいたのです。下水道の出口の鉄格子《てつごうし》は遠くありませんでした。それからもれて来るわずかな光で、彼は新らしくきた男が何者であるかを見て取り、また背中に何かかついでるのを知りました。その男は背をかがめて歩いていました。それは前徒刑囚で、肩に担《にな》ってるのは一つの死体でした。でまあ言わば、殺害の現行犯です。窃盗の方はそれから自然にわかることです。人はただで他人を殺すもので
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