《そげき》の巧みなひとりの暴徒が平屋根の上で戦ったが、一個の安楽椅子を持ち出していた。そしてそれに腰掛けたまま霰弾《さんだん》にたおれた。
 指揮者が戦闘準備の命令を下すや否やすべて無秩序な運動は止む。もはや不和もなく、寄り集まりもなく、陰口もなく、離れた群れもない。人々の頭の中にあるものはみな一つに集中し、ただ敵の襲撃を待つの念だけに変わってしまう。防寨は危険が来る前までは混乱であるが、危険に陥れば規律となる。危急は秩序を生ずる。
 アンジョーラが二連発のカラビン銃を取って、自分の場所としてる一種の狭間《はざま》に身を置くや、人々は口をつぐんでしまった。多くの小さな鋭い音が舗石《しきいし》の壁に沿ってごったに起こった。それは銃を構える音だった。
 また人々の態度は、深い勇気と信念とを示していた。極度の犠牲心はかえって力を生ぜさせる。彼らはもはや希望を持たなかったが、しかし絶望を持っていた。絶望は時として勝利を与える最後の武器であるとは、ヴァージルの言ったところである。最上の手段は最後の決心から生まれてくる。死の船に乗り込むのは、往々にして難破から脱する方法となる。柩《ひつぎ》の蓋《ふた》は身をまもる板となる。
 前夜のとおり人々の注意は、今や明るくなって見えてきた街路の先端に向けられた、というよりそこに倚《よ》りかかったと言ってもよい。
 待つ間は長くなかった。どよめきの音がサン・ルーの方面にまたはっきり聞こえ始めた。しかしそれは第一回の攻撃のおりの運動とは異なっていた。鎖の音、大集団の恐ろしいざわめき、舗石の上に当たる青銅の音、一種のおごそかな響き、それらはあるすごい鉄器が近づいてくるのを示していた。多くの利害と思想とが交通するためにうがち設けられ、恐ろしい戦車を通すために作られたのではない、それらの平和な古い街路のうちに、一つの震動が起こってきた。
 街路の先端に据えられてた戦士らの瞳《ひとみ》は、ものすごくなった。
 一門の大砲が現われた。
 砲手らが砲車を押し進めてきた。大砲は発射架の中に入れられていた。前車ははずされていた。砲手の二人は砲架をささえ、四人は車輪の所に添い、他の者らはあとに続いて弾薬車を引いていた。火のついた火繩《ひなわ》の煙が見えていた。
「打て!」とアンジョーラは叫んだ。
 防寨《ぼうさい》は全部|火蓋《ひぶた》を切った。その射撃は猛烈だった。雪崩《なだれ》のような煙は、砲門と兵士らとをおおい隠した。数秒ののち煙が散ると、大砲と兵士らとが再び見えた。砲手らは静かに正確に急ぎもせず、砲口を防寨の正面に向けてしまっていた。弾にあたった者は一人もいなかった。砲手長は砲口を上げるため砲尾に身体をもたせかけ、望遠鏡の度を合わせる天文学者のように落ち着き払って、照準を定め始めた。
「砲手、あっぱれ!」とボシュエは叫んだ。
 そして、防寨の者は皆拍手した。
 一瞬間の後には、大砲は街路のまんなかに溝をまたいでおごそかに据えられ、発射するばかりになっていた。恐るべき口は防寨の上に開かれていた。
「さあこい!」とクールフェラックは言った。「ひどい奴《やつ》だな、指弾《しっぺい》の後に拳骨《げんこつ》か。軍隊は俺《おれ》たちの方に大きな足を差し出したな。こんどは防寨も本当に動くぞ。小銃は掠《かすめ》るばかりだが、大砲はぶっつかる。」
「新式の青銅の八斤砲だ。」とコンブフェールはそれに続いて言った。「あの砲は、銅と錫《すず》とが百に十の割合を越すとすぐに破裂する。錫が多すぎれば弱くなって、火門の中に幾つもすき間ができる。その危険を避けしかも装薬を強くするには、十四世紀式に戻って箍《たが》をはめなくちゃいけない。すなわち砲尾から砲耳までつぎ目なしの鋼鉄の輪をたくさんはめて外から強くするんだ。さもなければどうにかして欠点を補うんだ。猫捜器で火門の中にできたすきまがわかる。しかし最もいい方法は、グリボーヴァルの発明した動星器を用いることだ。」
「十六世紀には、」とボシュエは言った、「砲身内に旋条を施していた。」
「そうだ、」とコンブフェールは答えた、「そうすれば弾道力は増すが、ねらいの正確さは減ずる。その上、短距離の射撃には、弾道は思うようにまっすぐにならず、抛物線《ほうぶつせん》は大きくなり、弾は充分まっすぐに飛ばなくて中間の物を打つことができなくなる。しかし実戦においては中間の物を打つ必要があって、敵が近くにおり発射を急ぐ場合には、ますますそれが大切となる。十六世紀の旋条砲の弾道が彎曲《わんきょく》するその欠点は、装薬の弱さからきている。そして装薬を弱くするのは、この種の武器では、たとえば砲架を痛めないようにというような発射の方の必要からきている。要するにこの専制者たる大砲も、欲することを何でもやれるわけではない。力には
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