た。
「何か望みはないか。」と彼にアンジョーラは尋ねた。
 ジャヴェルは答えた。
「いつ俺《おれ》を殺すのか。」
「待っておれ。今は弾薬の余分がないんだ。」
「では水をくれ。」とジャヴェルは言った。
 アンジョーラは一杯の水を持ってき、彼がすっかり縛られてるので自らそれを飲ましてやった。
「それだけか。」とアンジョーラは言った。
「この柱では楽でない。」とジャヴェルは答えた。「このまま一夜を明かさせたのは薄情だ。どう縛られてもかまわんが、あの男のようにテーブルの上に寝かしてくれ。」
 そう言いながら頭を動かして彼はマブーフ氏の死体をさした。
 読者の記憶するとおり、弾を鋳たり弾薬をこしらえたりした大きなテーブルが室の奥にあった。弾薬はすべてでき上がり火薬はすべて用い尽されたので、そのテーブルはあいていた。
 アンジョーラの命令で、四人の暴徒はジャヴェルを柱から解いた。解いてる間、五番目の男はその胸に銃剣をさしつけていた。両手は背中に縛り上げたままにし、足には細い丈夫な鞭繩《むちなわ》をつけておいた。それで彼は絞首台に上る人のように、一足に一尺四、五寸しか進むことができなかった。室《へや》の奥のテーブルの所まで歩かせて、人々はその上に彼を横たえ、身体のまんなかをしっかと縛りつけた[#「しっかと縛りつけた」は底本では「しっかとり縛つけた」]。
 なおいっそう安全にするために、脱走を不可能ならしむる縛り方をした上、首につけた繩で、監獄において鞅《むながい》と呼ばるる縛り方を施した。繩を首の後ろから通して、胸の所で十字にし、それから胯《また》の間を通し、後ろの両手に結びつけるのである。
 人々がジャヴェルを縛り上げてる間、ひとりの男が室の入り口に立って、妙に注意深く彼をながめていた。ジャヴェルはその男の影を見て、頭を回《めぐ》らした。それから目をあげて、ジャン・ヴァルジャンの姿を認めた。ジャヴェルは別に驚きもしなかった。ただ傲然《ごうぜん》と目を伏せて、自ら一言言った。「ありそうなことだ。」

     七 局面の急迫

 夜は急に明けてきた。しかし窓は一つも開かれず、戸口は一つも弛《ゆる》められなかった。夜明けではあったが、目ざめではなかった。防寨《ぼうさい》に相対してるシャンヴルリー街の一端は、前に言ったとおり、軍隊の撤退したあとで、今やまったく自由になったかのように、気味悪い静けさをして人の通行を許していた。サン・ドゥニ街は、スフィンクスの控えてるテーベの大道のようにひっそりしていた。四つ辻《つじ》は太陽の反映に白く輝いていたが、生あるものは何もいなかった。寂然《せきぜん》たる街路のその明るみほど、世に陰気なものはあるまい。
 何物も目には見えなかったが、物音は聞こえていた。ある距離をへだてた所に怪しい運動が起こっていた。危機が迫ってることは明らかだった。前夜のように哨兵《しょうへい》らが退いてきた、しかし今度は哨兵の全部だった。
 防寨は第一の攻撃の時よりいっそう堅固になっていた。五人の男が立ち去ってから、人々は防寨をなお高めていた。
 市場町の方面を見張っていた哨兵の意見を聞いて、アンジョーラは後方から不意打ちされるのを気使い、一大決心を定めた。すなわちその時まで開いていたモンデトゥール小路の歯状堡《しじょうほう》をもふさがした。そのためになお数軒の人家にわたる舗石《しきいし》がめくられた。かくて防寨は、前方シャンヴルリー街と、左方シーニュ街およびプティート・トリュアンドリー街と、右方モンデトゥール街と、三方をふさいで、実際ほとんど難攻不落に思われた。彼らはまったくその中に閉じ込められた。正面は三方に向いていたが、出口は一つもなかった。「要塞《ようさい》にしてまた鼠罠《ねずみわな》か、」とクールフェーラックは笑いながら言った。
 アンジョーラは居酒屋の入り口の近くに三十ばかりの舗石《しきいし》を積ました。「よけいにめくったもんだ、」とボシュエは言った。
 攻撃が来るに違いないと思われた方面は、今やいかにも深く静まり返っていた。でアンジョーラは一同をそれぞれ戦闘位置につかした。
 ブランデーの少量が各人に分配された。
 襲撃に対する準備をしてる防寨《ぼうさい》ほど不思議なものはない。人々は芝居小屋にでもはいったかのように各自に自分の位置を選む。あるいは身体をよせかけ、あるいは肱《ひじ》をつき、あるいは肩でよりかかる。舗石を立てて特別の席をこしらえる者もある。邪魔になる壁のすみからはなるべく遠ざかる。身をまもるに便利な凸角《とつかく》があればそれにこもる。左ききの者は調法で、普通の者に不便な場所を占むる。多くの者は腰をおろして戦列につく。楽に敵を殺し気持ちよく死ぬことを欲するからである。一八四八年六月の悲惨な戦いにおいては、狙撃
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