であるだろう。二十世紀にはもはや、古い歴史に見えるようなものは一つもないだろう。征服、侵略、簒奪《さんだつ》、武力による各国民の競争、諸国王の結婚結合よりくる文化の障害、世襲的暴政を続ける王子の出生、会議による民衆の分割、王朝の崩壊による国家の分裂、二頭の暗黒なる山羊《やぎ》のごとく無限の橋上において額をつき合わする二つの宗教の争い、それらももはや今日のように恐るるに及ばないだろう。飢饉《ききん》、不正利得、困窮から来る売淫《ばいいん》、罷工から来る悲惨、絞首台、剣、戦争、および事変の森林中におけるあらゆる臨時の追剥《おいはぎ》、それらももはや恐るるに及ばないだろう、否もはや事変すらもないとさえ言い得るだろう。人は幸福になるだろう。地球がおのれの法則を守るごとく、人類はおのれの大法を守り、調和は人の魂と天の星との間に立てられるだろう。惑星が光体の周囲を回るごとく、人の魂は真理の周囲を回るだろう。諸君、われわれがいる現在の時代は、僕が諸君に語っているこの時代は、陰惨なる時代である。しかしそれは未来を購《あがな》うべき恐ろしい代金である。革命は一つの税金である。ああかくて人類は、解放され高められ慰めらるるであろう! われわれはこの防寨《ぼうさい》の上において、それを人類に向かって断言する。愛の叫びは、もし犠牲の高処からでないとすれば果たしてどこからいで得るか。おお兄弟諸君、ここは考える者らと苦しむ者らとの接合点である。この防寨は、舗石《しきいし》からもしくは角材からもしくは鉄屑《てつくず》からできてるのではない。二つの堆積からできてるのだ、思想の堆積と苦難の堆積とからである。ここにおいて悲惨は理想と相会する。白日は暗夜を抱擁して言う、予は今汝と共に死せんとし汝は今予と共に再生せんとする。あらゆる困苦を抱きしむることから信念がほとばしり出る。苦難はここにその苦痛をもたらし、思想はここにその不滅をもたらしている。その苦痛とその不滅とは相交わって、われわれの死を形造《かたちづく》る。兄弟よ、ここで死ぬ者は未来の光明のうちに死ぬのである。われわれは曙《あけぼの》の光に満ちたる墳墓の中にはいるのである。」
 アンジョーラは口をつぐんだ、というよりもむしろ言葉を途切らした。彼の脣《くちびる》は、なお自分自身に向かって語り続けてるかのように、黙々として動いていた。ために人々は、注意を凝らしなおその言を聞かんがために彼をながめた。何らの喝采《かっさい》も起こらなかったが、低いささやきが長く続いた。言葉は息吹《いぶき》である。それから来る知力の震えは木の葉のそよぎにも似ている。

     六 粗野なるマリユス、簡明なるジャヴェル

 マリユスの脳裏に起こったことを一言しておきたい。
 彼の心の状態を読者は記憶しているだろう。彼にとってすべてはもはや幻にすぎなかったとは、前に繰り返したところである。彼の識別力は乱れていた。なお言うが、瀕死《ひんし》の者の上にひろがる大きい暗い翼の影にマリユスは包まれていた。彼は墳墓の中にはいったように感じ、既に人生の壁の向こう側にいるような心地がして、もはや生きたる人々の顔をも死人の目でしかながめていなかった。
 いかにしてフォーシュルヴァン氏がここへきたのか、何ゆえにきたのか、何をしにきたのか? それらの疑問をもマリユスは起こさなかった。その上、人の絶望には特殊な性質があって、自分自身と同じく他人をも包み込んでしまうものである。すべての人が死ににきたということも、マリユスには至って当然なことに思われた。
 ただ彼は、コゼットのことを考えては心を痛めた。
 それにまたフォーシュルヴァン氏は、マリユスに言葉もかけず、マリユスの方をながめもせず、マリユスが声を上げて「僕はあの人を知っている」と言った時にも、その声を耳にしたような様子さえしなかった。
 マリユスにとっては、フォーシュルヴァン氏のそういう態度は意を安んぜさせるものであった。そしてもし言い得べくんば、ほとんど彼を喜ばせるものであった。彼にとってフォーシュルヴァン氏は怪しいとともにまたいかめしい謎《なぞ》のごとき人物であって、いつも言葉をかけることは絶対に不可能のような気がしていた。その上会ったのはよほど以前のことだったので、元来臆病で内気なマリユスはいっそう言葉をかけ難い気がした。
 選ばれた五人の男は、モンデトゥール小路の方へ防寨《ぼうさい》を出て行った。彼らはどう見ても国民兵らしく思われた。そのうちのひとりは涙を流しながら去っていった。防寨を出る前に彼らは残ってる人々を抱擁した。
 生命のうちに送り返される五人の男が出て行った時、アンジョーラは死に定められてる男のことを考えた。彼は下の広間にはいっていった。ジャヴェルは柱に括《くく》られたまま考え込んでい
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