言った。「かまわずにはいって下さい。お爺さんはもう寝床から動けないので、鍵《かぎ》はいつも扉《とびら》についています。」
医者はジャン・ヴァルジャンに会い、彼に話をしかけた。
医者がおりてくると、門番の女は彼に呼びかけた。
「どうでございましょう?」
「病人はだいぶ悪いようだ。」
「どこが悪いんでございましょうか。」
「どこと言って悪い所もないが、全体がよくない。見たところどうも大事な人でも失ったように思われる。そんなことで死ぬ場合もあるものだ。」
「あの人はあなたに何と言いましたか。」
「病気ではないと言っていた。」
「またあなたにきていただけますでしょうか。」
「よろしい。」と医者は答えた。「だが私よりもほかの人にきてもらわなければなるまい。」
三 今は一本のペンも重し
ある晩ジャン・ヴァルジャンは、辛うじて肱《ひじ》で身を起こした。自ら手首を取ってみると、脈が感ぜられなかった。呼吸は短くて時々止まった。彼は今まで知らなかったほどひどく弱ってるのに気づいた。すると、何か最期の懸念に駆られたのであろう、彼は努力をして、そこにすわり、服をつけた。自分の古い労働服を着た。もう外にも出かけないので、またその服を取り出し、それを好んでつけたのだった。服をつけながら何度も休まなければならなかった。上衣の袖《そで》に手を通すだけでも、額から汗が流れた。
ひとりになってから彼は、控え室の方に寝台を移していた。寂しい広間にはできるだけいたくなかったからである。
彼は例の鞄《かばん》を開いてコゼットの古い衣裳を取り出した。
彼はそれを寝床の上にひろげた。
司教の二つの燭台《しょくだい》は元のとおり暖炉の上にのっていた。彼は引き出しから二つの蝋燭《ろうそく》を取って、それを燭台《しょくだい》に立てた。それから、夏のこととてまだ充分明るかったが、その蝋燭《ろうそく》に火をともした。死人のいる室《へや》の中にそんなふうに昼間から蝋燭がともされてるのは、時々見られることである。
一つの道具から他の道具へと行く一歩一歩に、彼は疲れきって腰をおろさなければならなかった。それは力を費やしてはまた回復するという普通の疲労ではなかった。ある限りの運動の残りだった。二度とはやれない最後の努力のうちにしたたり落ちてゆく、消耗し尽した生命であった。
彼が身を落とした椅子《いす》の一つは、ちょうど鏡の前になっていた。その鏡こそは、彼にとっては宿命的なものであり、マリユスにとっては天意的なものであって、すなわち彼がコゼットの逆の文字を吸い取り紙の上に読み得たその鏡だった。彼は鏡の中に自分の顔をのぞいたが、自分とは思えないほどだった。八十歳にもなるかと思われた。マリユスの結婚前には、ようやく五十歳になるかならないくらいに思えたが、この一年の間に三十ほども年を取ってしまっていた。今額にあるものは、もはや老年の皺《しわ》ではなくて、死の神秘な標《しるし》だった。無慈悲な爪《つめ》の痕《あと》がそこに感ぜられた。両の頬《ほお》はこけていた。顔の皮膚は、既に土をかぶったかと思われるような色をしていた。口の両すみは、古人がよく墓の上に刻んだ多くの面に見るように、下にたれ下がっていた。彼は非難するような様子で空《くう》をながめた。だれかをとがめずにはいられない悲壮な偉人のひとりかと思われた。
彼はもはや悲哀の流れも涸《か》れつくしたという状態に、疲憊《ひはい》の最後の一段にあった。悲しみも言わば凝結してしまっていた。人の魂についても、絶望の凝塊とでも言うべきものがある。
夜になった。彼は非常な努力をして、テーブルと古い肱掛《ひじか》け椅子《いす》とを暖炉のそばに引き寄せ、テーブルの上にペンとインキと紙とをのせた。
それがすんで、彼は気を失った。意識を恢復すると、喉《のど》がかわいていた。水差しを持ち上げることができないので、それをようやく口の方へ傾けて、一口飲んだ。
それから彼は寝床の方を振り向き、立っておれないのでやはりすわったまま、小さな黒い長衣とその他の大事な品々とをながめた。
そういう観照は、数分間と思ってるうちにはや幾時間にもなるものである。突然彼は身震いをし、寒気《さむけ》に襲わるるのを感じた。彼は司教の燭台《しょくだい》にともってる蝋燭《ろうそく》に照らされたテーブルに肱《ひじ》をかけて、ペンを取り上げた。
ペンもインキも長く使わないままだったので、ペンの先は曲がり、インキはかわいていた。彼は立ちあがって数滴の水をインキの中に注がなければならなかった。それだけのことをするにも二、三回休んで腰をおろした。それにまたペンは背の方でしか字が書けなかった。彼はときどき額を拭《ふ》いた。
彼の手は震えていた。彼はゆっくりと次のような数
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