行を認めた。
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コゼット、私はお前を祝福する。私はここにちょっと説明しておきたい。お前の夫《おっと》が、私に去るべきものであることを教えてくれたのは、至当なことである。けれども、彼が信じていることのうちには少し誤りがある。しかしそれも彼が悪いのではない。彼はりっぱな人である。私が死んだ後も、常に彼をよく愛しなさい。ポンメルシー君、私の愛児を常に愛して下さい。コゼット、私はここに書き残しておく。これは私がお前に言いたいと思ってることである。私にまだ記憶の力が残っていたら、数字も出てくるであろうが、よく聞きなさい。あの金はまったくお前のものである。そのわけはこうである。白飾玉はノールウェーからき、黒飾玉はイギリスからき、黒ガラス玉はドイツから来る。飾り玉の方が軽くて貴《とうと》くて価も高い。その擬《まが》い玉はドイツでできるが、フランスでもできる。二寸四方の小さな鉄碪《かなしき》と鑞《ろう》を溶かすアルコールランプとがあればよい。その鑞は、以前は樹脂と油煙とで作られていて、一斤四フランもしていた。ところが私は漆《うるし》とテレビン油とで作ることを考え出した。価はわずかに三十スーで、しかもずっと品がよい。留め金は紫のガラスでできるのだが、右の鑞でそのガラスを黒い鉄の小さな輪縁につける。ガラスは鉄の玉には紫でなければいけないし、金《きん》の玉には黒でなければいけない。スペインにその需要が多い。それは飾り玉の国で……
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そこで彼は書くのをやめ、ペンは指から落ち、時々胸の底からこみ上げてくる絶望的なすすり泣きがまた襲ってき、あわれな彼は両手で頭を押さえ、そして思いに沈んだ。
「ああ、万事終わった。」と彼は心の中で叫んだ(神にのみ聞こえる痛むべき叫びである)。「私はもう彼女に会うこともあるまい。それは一つのほほえみだったが、もう私の上を通りすぎてしまった。彼女を再び見ることもなく、私はこのまま闇夜《やみよ》のうちにはいってゆくのか。おお、一分でも、一秒でも、あの声をきき、あの長衣にさわり、あの顔を、あの天使のような顔をながめ、そして死ねたら! 死ぬのは何でもない。ただ恐ろしいのは、彼女に会わないで死ぬことだ。彼女はほほえんでくれるだろう、私に言葉をかけてくれるだろう。そうしたとてだれかに災いをおよぼすだろうか。いやいや、もう済んでしまった、永久に。私はこのとおりただひとりである。ああ、私はもう彼女に会えないだろう。」
その時だれか扉《とびら》をたたく者があった。
四 物を白くするのみなる墨壺《すみつぼ》
ちょうどその時、なおよく言えばその同じ夕方、マリユスが食卓を離れ、訴訟記録を調べる用があって、自分の事務室に退いた時、バスクが一通の手紙を持ってきて言った。「この手紙の本人が控え室にきております。」
コゼットは祖父の腕を取って、庭を一回りしていた。
手紙にも人間と同じく、気味の悪いものがある。粗末な紙、荒い皺《しわ》、一目見ただけでも不快の気を起こさせるものがある。バスクが持ってきた手紙はそういう種類のものだった。
マリユスはそれを手に取った。煙草《たばこ》のにおいがしていた。およそにおいほど記憶を呼び起こさせるものはない。マリユスはその煙草のにおいに覚えがあった。彼は表をながめた。「御邸宅にて[#「御邸宅にて」に傍点]、ポンメルシー男爵閣下[#「ポンメルシー男爵閣下」に傍点]。」煙草のにおいに覚えがあるために、彼は手跡にも覚えがあることがわかった。驚きの情にも電光があると言っても不当ではない。マリユスはそういう電光の一つに照らされたようだった。
記憶の神秘な助手であるにおいは、彼のうちに一世界をよみがえらした。紙といい、たたみ方といい、インキの青白い色といい、また見覚えのある手跡といい、ことに煙草のにおいといい、すべてが同じだった。ジョンドレットの陋屋《ろうおく》が彼の目の前に現われてきた。
偶然の不思議なる悪戯よ! かくて、彼があれほどさがしていた二つの踪跡《そうせき》のうちの一つ、最近更に多くの努力をしたがついにわからずもう永久に見いだせないと思っていた踪跡《そうせき》は、向こうから彼の方へやってきたのである。
彼は貪《むさぼ》るように手紙を披《ひら》いて読み下した。
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男爵閣下
もし天にして小生に才能を与えたまいしならんには、小生は学士院(科学院)会員テナル男爵となり得|候《そうら》いしものを、ついにしからずして終わり候《そうろう》。小生はただその名前のみを保有し居候が、この一事によって閣下の御好意に浴するを得ば幸甚に御座候。小生に賜わる恩恵は報いらるるべき所これ有り候。と申すは、小生はある個人に関する秘密を握りお
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