ジャンはまだ帰らないと答えさした。
 コゼットはそれ以上尋ねなかった。この世でなくてならないものは、ただマリユスばかりだったから。
 なお言っておくが、マリユスとコゼットの方でもまた不在になった。彼らはヴェルノンへ行った。マリユスはコゼットを父の墓へ連れて行った。
 マリユスはコゼットをしだいにジャン・ヴァルジャンからのがれさした。コゼットはされるままになっていた。
 それにまた、子供の忘恩などとある場合にはあまりきびしく言われてることも、実は人が考えるほど常にとがむべきことではない。それは自分自身の忘恩である。他の所で言っておいたように、自然は「前方を見て」いる。自然は生きてるものを、来る者と去る者とに分かっている。去る者は闇《やみ》の方へ向き、来る者は光明の方へ向いている。ここにおいてか乖離《かいり》が生じてきて、老いたる者にとっては宿命的なものとなり、若い者にとっては無意識的なものとなる。その乖離《かいり》は初めは感じ難いほどであるが、木の枝が分かれるようにしだいに大きくなる。小枝はなお幹についたまま遠ざかってゆく。それは小枝の罪ではない。青春は喜びのある所へ、にぎわいの方へ、強い光の方へ、愛の方へ、進んでゆく。老衰は終焉《しゅうえん》の方へ進んでゆく。両者は互いに姿を見失いはしないが、もはや抱擁はしなくなる。若き者は人生の冷ややかさを感じ、老いたる者は墳墓の冷ややかさを感ずる。そのあわれなる子供らをとがめてはいけない。

     二 油尽きたるランプの最後のひらめき

 ある日、ジャン・ヴァルジャンは階段をおりてゆき、街路に二、三歩ふみ出して、ある標石の上に腰をおろした。それは、六月五日から六日へかけた晩、ガヴローシュがやってきた時、彼が考えふけりながら腰掛けていたのと、同じ石であった。彼はそこにしばらくじっとしていたが、やがてまた階上《うえ》へ上っていった。それは振り子の最後の振動だった。翌日、彼はもう室《へや》から出なかった。その翌日には、もう寝床から出なかった。
 門番の女は、キャベツや馬鈴薯《ばれいしょ》に少しの豚肉をまぜて、彼の粗末な食物をこしらえてやっていたが、その陶器皿の中を見て叫んだ。
「まああなたは、昨日《きのう》から何も召し上がらないんですね。」
「いや食べたよ。」とジャン・ヴァルジャンは答えた。
「お皿はまだいっぱいですよ。」
「水差しを見てごらん。空《から》になってるから。」
「それは、ただ水を飲んだというだけで、なにも食べたことにはなりません。」
「でも、」とジャン・ヴァルジャンは言った、「水だけしかほしくなかったのだとしたら?」
「それは喉《のど》がかわいたというもんです。いっしょに何にも食べなければ、熱ですよ。」
「食べるよ。明日《あした》は。」
「それともいつかは、でしょう。なぜ今日召し上がらないんです。明日は食べよう、なんていうことがありますか。私がこしらえてあげたのに手をつけないでおくなんて! この煮物はほんとにおいしかったんですのに!」
 ジャン・ヴァルジャンは婆さんの手を取った。
「きっと食べるよ。」と彼は親切な声で言った。
「あなたはわからずやです。」と門番の女は答えた。
 ジャン・ヴァルジャンはその婆さんよりほかにはほとんどだれとも顔を合わせなかった。パリーのうちにはだれも通らない街路があり、だれも訪れてこない家がある。彼はそういう街路の一つに住み、そういう家の一つにはいっていた。
 まだ外に出かけた頃、彼はある鋳物屋の店で、五、六スー出して小さな銅の十字架像を買い、それを寝台の正面の釘《くぎ》にかけて置いた。そういう首つり台はいつ見ても快いものである。
 一週間過ぎたが、その間ジャン・ヴァルジャンは室《へや》の中さえ一歩も歩かなかった。彼はいつも寝たままだった。門番の女は亭主に言った。「上のお爺《じい》さんは、もう起きもしなければ、食べもしないんだよ。長くはもつまい。何かひどく心配なことがあるらしい。私の推察じゃ、きっと娘が悪い所へかたづいたんだよ。」
 亭主は夫《おっと》としての威厳を含んだ調子でそれに答えて言った。
「もし金があれば、医者にかかるさ。金がなければ、医者にかからないさ。医者にかからなければ、死ぬばかりさ。」
「医者にかかったら?」
「やはり死ぬだろうよ。」と亭主は言った。
 女房は自ら自分の舗石《しきいし》と言ってる所にはえかかってる草を、古ナイフで掻《か》き取りはじめたが、そうして草を取りながらつぶやいた。
「かわいそうに。きれいな爺《じい》さんなのに。雛鶏《ひよっこ》のようにまっ白だが。」
 彼女は街路の向こう端に、近所の医者がひとり通りかかるのを見た。そして自分ひとりできめて、その医者にきてもらうことにした。
「三階でございますよ。」と彼女は医者に
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