た。
 毎日、彼は同じ時刻に家をいで、同じ道筋をたどったが、向こうまで行きつくことができなかった。そしておそらく自分でも気づかないで、行く距離を絶えず縮めていた。彼の顔にはただ一つの観念が浮かんでいた、すなわち、何の役に立とう? と。眸《ひとみ》の光は消えうせて、もう外に輝かなかった。涙もまた涸《か》れて、もう眼瞼《まぶた》のすみにたまらなかった。その思い沈んだ目はかわいていた。彼の頭はいつも前方に差し出されていた。時々その頤《あご》が震え動いていた。やせた首筋のしわは見るも痛ましいほどだった。時としては、天気の悪い時など、腕の下に雨傘《あまがさ》を抱えていたが、それを開いてることはなかった。その辺の上《かみ》さんたちは言った、「あの人はおばかさんですよ。」子供たちは笑いながらそのあとについていった。
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   第九編 極度の闇《やみ》、極度の曙《あけぼの》


     一 不幸者をあわれみ幸福者を恕《ゆる》すべし

 幸福であるのは恐るべきことである。いかに人はそれに満足し、いかにそれをもって足れりとしていることか! 人生の誤れる目的たる幸福を所有して、真の目的たる義務を、いかに人は忘れていることか!
 けれどもあえて言うが、マリユスを非難するのは不当であろう。
 マリユスは前に説明したとおり、結婚前にもフォーシュルヴァン氏に向かって問い糺《ただ》すことをせず、結婚後にもジャン・ヴァルジャンに向かって問い糺すことを恐れた。彼は心ならずも約束するに至ったことを後悔した。望みなきあの男にそれだけの譲歩をなしたのは誤りだったと、彼は幾度も自ら言った。そして今は、しだいにジャン・ヴァルジャンを家から遠ざけ、できるだけ彼をコゼットの頭から消してしまおうと、ただそれだけをはかっていた。コゼットとジャン・ヴァルジャンとの間にいつも多少自分をはさんで、彼女がもう彼のことを気づかず彼のことを頭に浮かべないようにと、願っていた。それは消し去ること以上で、蝕《しょく》し去ることであった。
 マリユスは必要であり正当であると判断したことを行なってるに過ぎなかった。彼は苛酷なこともせずしかも弱々しい情も動かさないでジャン・ヴァルジャンを排斥し去ろうとしていたが、それには、彼の考えによれば、読者が既に見てきたとおりの重大な理由があり、また次に述べる別の理由もあった。彼は自ら弁論することになったある訴訟事件において、偶然にも昔ラフィット家に雇われていた男と出会い、何も別に尋ねたわけではないが、不思議な話を聞かされた。もとより彼は秘密を厳守すると約束した手前もあり、ジャン・ヴァルジャンの危険な地位をも考えてやって、その話を深く探ることはできなかった。ただ彼はその時、果たすべき重大な義務があることを感じた。それはあの六十万フランを返却するということで、彼はその相手をできるだけひそかにさがし求めた。そしてその間金に手をつけることを避けた。
 コゼットに至っては、それらの秘密を少しも知らなかった。しかし彼女を非難するのもまたあまり苛酷であろう。
 一種の強い磁力がマリユスから彼女へ流れていて、そのために彼女は、本能的にまたほとんど機械的に、マリユスの欲するままになっていた。「ジャン氏」のことについても、彼女はマリユスの意志に感応して、それに従っていた。夫《おっと》は彼女に何も言う必要はなかった。彼女は夫《おっと》の暗黙の意向から漠然《ばくぜん》たるしかも明らかな圧力を感じて、それに盲従した。彼女の服従はここではただ、マリユスが忘れてることは思い出すまいというのにあった。そのためには何ら努力の要はなかった。彼女は自らその理由を知らなかったし、また彼女にとがむべきことでもないが、彼女の魂はまったく夫の魂となり了《おう》せて、マリユスの考えの中で影に蔽《おお》われてるものは皆、彼女の考えの中でも暗くなるのであった。
 けれどもそれはあまり強く言えることではない。ジャン・ヴァルジャンに関することでは、その忘却と消滅とはただ表面的のものに過ぎなかった。彼女は忘れやすいというよりもむしろうっかりしていた。心の底では、長く父と呼んできたその男をごく愛していた。しかし夫《おっと》の方をなおいっそう愛していた。そのために彼女の心は、多少平衡を失って一方に傾いたのである。
 時々、コゼットはジャン・ヴァルジャンのことを言い出して怪しむこともあった。するとマリユスは彼女をなだめた。「留守なんだろう。旅に出かけるということだったじゃないか。」それでコゼットは考えた。「そうだ。あの人はいつもこんなふうにいなくなることがあった。それにしてもこう長引くことはなかったが。」二、三度彼女はニコレットをオンム・アルメ街にやって、ジャン氏が旅から帰られたかと尋ねさした。ジャン・ヴァル
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