かった。
 彼は気力もぬけはてて出て行った。
 こんどは彼もよく了解した。
 翌日彼はもうこなかった。コゼットは晩になってようやくそれに気づいた。
「まあ、」と彼女は言った、「ジャンさんは今日いらっしゃらなかった。」
 彼女は軽い悲しみを覚えたが、すぐにマリユスの脣《くち》づけにまぎらされて、ほとんど自ら気にも止めなかった。
 その翌日も彼はこなかった。
 コゼットは別にそれを気にもせず、いつものとおりその晩を過ごし、その夜を眠り、目をさました時ようやくそのことを頭に浮かべた。彼女はそれほど幸福だったのである。彼女はその朝すぐにジャン氏のもとへニコレットをやって、病気ではないか、また昨日はなぜこなかったかと尋ねさした。ニコレットはジャン氏の答えをもたらしてきた。少しも病気ではない。ただ忙しかった。すぐにまた参るだろう、できるだけ早く。それにまたちょっと旅をしようとしている。奥さんは自分がいつも時々旅する習慣になってるのを覚えていられるはずである。決して心配されないように。自分のことは考えられないように。
 ニコレットはジャン氏の家へ行って、奥様の言葉をそのまま伝えたのだった。「昨日ジャン様はなぜおいでにならなかったか」を尋ねに奥様からよこされたのだと。「私が参らないのはもう二日になります、」とジャン・ヴァルジャンは静かに答えた。
 しかしその注意はニコレットの気に止まらなかった。彼女はそのことについては一言もコゼットに復命しなかった。

     四 牽引力《けんいんりょく》と消滅

 一八三三年の晩春から初夏へかけた数カ月の間、マレーのまばらな通行人や店頭にいる商人や門口にぼんやりしてる人などは、さっぱりした黒服をまとってるひとりの老人を見かけた。老人は毎日日暮れの頃同じ時刻に、オンム・アルメ街からサント・クロア・ド・ラ・ブルトンヌリー街の方へ出てきて、ブラン・マントー教会堂の前を通り、キュルテュール・サント・カトリーヌ街へはいり、エシャルプ街まできて左に曲がり、そしてサン・ルイ街へはいるのだった。
 そこまで行くと、彼は足をゆるめ、頭を前方に差し出し、何にも見ず何にも聞かず、目を常に同じ一点にじっととらえていた。その一点は、彼にとっては星が輝いてるのかと思われたが、実はフィーユ・デュ・カルヴェール街の角《かど》にほかならなかった。その街路に近づくに従って、彼の目はますます輝いてきた。内心の曙《あけぼの》のように一種の喜悦の情がその眸《ひとみ》に光っていた。そして魅せられ感動されてるような様子をし、脣《くちびる》はかすかに震え動き、あたかも目に見えない何者かに話しかけてるがようで、ぼんやり微笑を浮かべて、できるだけゆっくり足を運んだ。向こうに行きつくことを願いながら、それに近寄る瞬間を恐れてるとでもいうようだった。彼を引きつけるらしいその街路からもはや家の四、五軒しかへだたらない所まで行くと、彼の歩調は非常にゆるやかになって、時とするともう歩いてるのでないとさえ思われるほどだった。その震える頭とじっと定めた瞳《ひとみ》とは、極を求める磁石の針《はり》を思わせた。かくていくら到着を長引かしても、ついには向こうへ着かなければならなかった。彼はフィーユ・デュ・カルヴェール街に達した。すると、そこに立ち止まり、身を震わし、最後の人家の角《かど》から、一種沈痛な臆病さで頭を差し出し、その街路をのぞき込んだ。その悲愴《ひそう》な眼差《まなざし》の中には、不可能事から来る眩暈《めまい》と閉ざされたる楽園とに似た何かがあった。それから一滴の涙が、徐々に眼瞼《まぶた》のすみにたまってきて、下に落ちるほど大きくなり、ついに頬《ほお》をすべり落ち、あるいは時とすると口もとに止まった。老人はその苦《にが》い味を感じた。彼はそのまましばらく石のようになってたたずんだ。それから、同じ道を同じ歩調で戻っていった。その角から遠ざかるに従って、目の光は消えていった。
 そのうちしだいに、老人はフィーユ・デュ・カルヴェール街の角まで行かないようになった。彼はよくサン・ルイ街の中ほどに立ち止まった、あるいは少し遠くに、あるいは少し近くに。ある日などは、キュルテュール・サント・カトリーヌ街の角に止まって、遠くからフィーユ・デュ・カルヴェール街をながめた。それから彼は何かを拒むがように、黙って頭を左右に振り、そして引き返していった。
 やがて彼は、もうサン・ルイ街までも行かなくなった。パベ街までしか行かないで、頭を振って戻っていった。次にはトロア・パヴィヨン街より先へは行かなくなった。その次にはもうブラン・マントー教会堂から先へ出なくなった。ちょうど、もう撥条《ばね》を巻かれなくなった振り子が、しだいに振動を狭《せば》めてついに止まってしまおうとしてるのによく似てい
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