思えた。そして長くジャン・ヴァルジャンをながめた後、彼が最後に取った態度は顔をそむけることだった。退け[#「退け」に傍点]([#ここから割り注]訳者注 サタンよ退け[#ここで割り注終わり])であった。
 あえて実際のところを言うならば、マリユスはジャン・ヴァルジャンにいろいろ尋ねて、ついにジャン・ヴァルジャンをして「あなたは私にすべてを打ち明けてくれと言われる[#「あなたは私にすべてを打ち明けてくれと言われる」に傍点]」と言わしめた程であったが、それでも重要な二、三の疑問は避けたのだった。それらの疑問が頭に浮かばないではなかったが、彼はそれを尋ねることを恐れた。すなわち、ジョンドレットの陋屋《ろうおく》のこと、防寨《ぼうさい》のこと、ジャヴェルのこと。それらの疑問からはいかなる事実が現われてくるか見当がつかなかった。ジャン・ヴァルジャンは自白を躊躇《ちゅうちょ》するような男とは思われなかった。そしてマリユスは、強《し》いて彼の口を開かせた後、また中途で、彼の口をつぐませたくなるかも知れなかった。ある非常な疑念の場合において、一つの問いを発した後、その答えが恐ろしくなって耳をふさごうとするようなことは、だれにでもあるものである。そういう卑怯《ひきょう》な念は、恋をしてる場合にことによく起こってくる。いとうべき事情を極度に聞きただすのは、賢明なことではない。自分の生命と分かつべからざる方面が必ずや関係してくるような場合には、ことにそうである。ジャン・ヴァルジャンが我を捨ててかかった説明からは、いかなる恐ろしい光が出て来るかわからなかったし、その忌むべき光がコゼットの身にまでおよぶかも知れなかった。その天使の額にも、地獄の光が多少残ってるかも知れなかった。電光の飛沫《ひまつ》もなお雷である。人の宿命にも一種の連帯性があるもので、潔白それ自身といえどもなお、他物をも染める反射の痛ましい法則によって罪悪の印が押されてることがある。最も純潔なるものにも、忌むべきものと隣した反映の跡がなお残ってることがある。正当か不当かは別として、とにかくマリユスは恐れをいだいた。彼は既にあまりあるほどのことを聞かされていた。その上深入りすることよりもむしろ心を転ずることを求めていた。彼は我を忘れて、ジャン・ヴァルジャンに対しては目を閉じながら、コゼットを両腕に抱き去った。
 その男は闇《やみ》夜であった。生きたる恐ろしい闇夜であった。いかにしてその奥底を探ることをなし得よう。闇に向かって問いを発するのは恐怖すべきことである。いかなる答えが出てくるかわかったものではない。そのために曙《あけぼの》までも永久に暗くされるかも知れない。
 そういう精神状態にあったから、以来その男がコゼットと何らかの接触を保つということは、マリユスにとっては思うもたえ難いことだった。自ら躊躇してなし得なかったその恐ろしい問い、動かすべからざる決定的な解決が出て来るかも知れなかったその恐ろしい問い、それをあえて発しなかったことを、彼は今となってほとんど自ら責めた。彼は自分があまりに善良で、あまりにおだやかで、更に言えば、あまりに弱かったのを知った。その弱さのために彼は、不注意な譲歩をするに至ったのである。彼はその感傷に乗ぜられた。彼は誤った。きっぱりと簡単にジャン・ヴァルジャンを拒絶すべきであった。ジャン・ヴァルジャンはむしろ火に与うべき部分であって、彼はそれを切り捨てて自分の家を火災から免れさせるべきであった。彼は自ら自分を恨み、また自分の耳をふさぎ目をふさいで巻き込んでいったその情緒の突然の旋風を恨んだ。彼は自分自身に不満だった。
 今はいかにしたらいいか。ジャン・ヴァルジャンの訪問は彼のはなはだしくいとうところだった。あの男を家に入れて何の役に立つか。どうしたらいいか。そこまで考えてきて彼は迷った。彼はそれ以上掘り下げることを欲せず、それ以上深く考慮することを欲しなかった。彼は自ら自分を測ることを欲しなかった。彼は約束を与えていた、言わるるままに約束してしまった。ジャン・ヴァルジャンは彼の誓約を得ていた。徒刑囚に対しても、否徒刑囚に対してであるからなおさら、約束は守らなければならない。とは言え彼の第一の義務はコゼットに対するものだった。要するに彼は、何よりもまず嫌悪《けんお》の念に揺すられた。
 マリユスは、頭の中にあるあらゆる観念を一々取り上げ、そのたびごとに心を動かされながら、雑然たる全体のことを持ちあぐんだ。その結果深い惑乱に陥った。またその惑乱をコゼットに隠すのは容易なことではなかった。しかし愛は一つの才能である。マリユスはついにそれを隠し遂げた。
 その上彼は、鳩《はと》の白きがように率直であって何らの疑念をもいだいていないコゼットに、それとなくいろいろなことを尋ね
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