・ヴァルジャンは、そもそもいかなるものであったろうか。上りゆく一つの星をしてあらゆる影と雲とを免れさせんとのみつとめた、この暗黒の男は、そもそもいかなるものであったろうか。
そこにジャン・ヴァルジャンの秘密があった。またそこに神の秘密があった。
その二重の秘密の前にマリユスはたじろいだ。ある意味において、一つは他を確実ならしめていた。この一事の中に、ジャン・ヴァルジャンの姿とともにまた神の姿も見られた。神はおのれの道具を持っている。神は欲するままの道具を使用する。神は人間に対しては責任を持たない。吾人はいかにして神の意を知り得ようぞ。ジャン・ヴァルジャンはコゼットのために力を尽した。彼はある程度まで彼女の魂を作り上げた。それは争うべからざる事実だった。しかるに、その仕事をした者は恐るべき男であった。しかしなされた仕事はみごとなものであった。神はおのれの心のままに奇跡を行なった。神は麗しいコゼットを作り上げ、その道具としてジャン・ヴァルジャンを使った。神は好んでこの不思議な共同者を選んだ。それはどういうつもりであったかを、吾人は神に尋ぬべきであろうか。肥料が春に手伝って薔薇《ばら》の花を咲かせるのは、別に珍しいことでもないではないか。
マリユスはそういう答えを自ら与えて、自らそれをよしと思った。上に指摘したあらゆる点に関して、彼はあえてジャン・ヴァルジャンに肉迫してゆかなかった。あえて肉迫し得ないでいるのは自ら気づかなかった。彼はコゼットを鍾愛《しょうあい》し、コゼットを所有し、そしてコゼットは純潔に光り輝いていた。それでもう彼には充分だった。この上いかなる説明を要しようぞ。コゼットは光輝そのものであった。光輝を更に明らかにする要があろうか。マリユスはすべてを持っていた。更に何を望むべきことがあろう。まったく、それで十分ではないか。ジャン・ヴァルジャン一身のことなどは、彼の関することではなかった。その男のいかんともし難い影をのぞき込みながら、彼はそのみじめなる男の荘重な断言にすがりついた。「コゼットに対して私は何の関係がありましょう[#「コゼットに対して私は何の関係がありましょう」に傍点]。十年前までは彼女が世にいることすらも知りませんでした[#「十年前までは彼女が世にいることすらも知りませんでした」に傍点]。」
ジャン・ヴァルジャンはただ通りがかりの者にすぎなかった。それは彼が自ら言ったことである。そして彼は今通りすぎようとしていた。彼がいかなる者であったにせよ、その役目はもう終わっていた。今後コゼットのそばで保護者の役目をする者はマリユスとなっていた。コゼットは蒼天《そうてん》のうちに、自分と似寄った者を、恋人を、夫《おっと》を、天国における男性を、見いだしたのである。翼を得姿を変えたコゼットは、空虚な醜い脱殻たるジャン・ヴァルジャンを、地上に残してきたのだった。
かくてマリユスは種々考え回したが、いつも終わりには、ジャン・ヴァルジャンに対する一種の恐怖に落ちていった。おそらくそれは聖なる恐怖であったろう。なぜなら彼は、その男のうちに天意的なもの[#「天意的なもの」に傍点]を感じていたからである。けれどもとにかく、いかに考えてみても、またいかに事情を酌《く》んでやっても、常にこういう結論に落ちゆかざるを得なかった。すなわち、彼は徒刑囚である。換言すれば、社会の最も下の階段よりも更に下にいて、自分の立つべき階段を有しない者である。最下等の人間の次が、徒刑囚である。徒刑囚は言わば生きた人間の仲間にはいる者ではない。徒刑囚は法律から、およそ奪われ得る限りの人間性を皆奪われた者である。マリユスは民主主義者であったが、刑法上の問題については厳格な社会組織の味方であって、法律に問わるる者に対してはまったく法律と同じ精神で臨んでいた。彼もまだあらゆる進歩をしたとは言えなかった。人間によって書かれたものと神によって書かれたものとを、法律と権利とを、彼はまだ区別し得なかった。人力にて廃しまたは回復し得ざるものをも処断するの権利を人が有するか否かを、少しも精査し考察していなかった。刑罰[#「刑罰」に傍点]という語に少しも反感を持っていなかった。成文律を犯した者が永久の罰を被るのは、きわめて至当なことであると考え、文明の方法として、社会的永罰を承認していた。彼は天性善良であり、根本においては内心の進歩をもなし遂げていたので、必ずや将来更に進んだ考えを持つには違いなかったが、現在においてはまだ右のような地点にしかいなかった。
そういう思想状態にあったので、彼にはジャン・ヴァルジャンがいかにも醜いいとうべきものに見えた。それは神に見|棄《す》てられたる男だった。徒刑囚だった。この徒刑囚という一語は、彼にとっては、審判のラッパの響きのように
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