もし難い靄《もや》の中に出没してとらえ難かった。
 正直に返された委託金、誠実になされた告白、それは善良なることであった。それはあたかも雲の中にひらめく光のようなものだった。が次にまた雲は暗くなった。
 マリユスの記憶はいかにも混乱していたが、多少の影は浮かんできた。
 ジョンドレットの陋屋《ろうおく》におけるあの事件は果たしてどういうことであったろうか。警官がきた時、なぜあの男は訴えることをせずに逃げ出してしまったのか。そのことについてはマリユスも答えを見いだし得た。すなわちその男は脱走の身で法廷から処刑されていたからである。
 次に第二の疑問が起こってきた。なぜあの男は防寨《ぼうさい》にやってきたのか。というのは、今やマリユスは炙出《あぶりだ》しインキのように、記憶が激しい情緒のうちに再び現われてくるのを明らかに認めたからである。あの男は防寨にいた。しかも戦ってはいなかった。いったい何をしにきたのであるか。その疑問に対して、一つの幻が浮かんできて答えた、ジャヴェルと。ジャン・ヴァルジャンが縛られてるジャヴェルを防寨の外へ連れてゆくすごい光景を、マリユスは今明らかに思い起こした、そしてモンデトゥール小路の角《かど》の向こうに恐ろしいピストルの音がしたのを、今なお耳にするがように覚えた。おそらくあの間諜《スパイ》とあの徒刑囚との間には、憎悪《ぞうお》の念があったに違いない。互いに邪魔になっていたのであろう。それでジャン・ヴァルジャンは復讐《ふくしゅう》をしに防寨《ぼうさい》へきたのだ。彼は遅くやってきた。たぶんジャヴェルが捕虜になってることを知ってきたのかも知れない。コルシカのいわゆるヴェンデッタ([#ここから割り注]訳者注 コルシカの閥族間に行なわれる猛烈な復讐[#ここで割り注終わり])はある種の下層社会にはいりこんで一つの法則となっている。半ば善の方へ向かってる者でもそれを至当だと思うほど普通のことになっている。彼らは悔悟の途中において窃盗は慎むとしても、復讐には躊躇《ちゅうちょ》しない。それでジャン・ヴァルジャンはジャヴェルを殺したのだ。あるいは少なくとも殺したらしい。
 最後になお一つの問題が残っていた。そしてこれには何らの解答も得られなかった。マリユスはあたかも釘抜《くぎぬ》きにはさまれたように感じた。すなわち、ジャン・ヴァルジャンとコゼットとあれほど長く生活を共にしてきたのは、どうしてだったろうか。この少女をあの男といっしょに置いた痛ましい天の戯れは、何の意味だったろうか。天上には二重鍛えの鎖もあるもので、神は天使と悪魔とをつなぎ合わして喜ぶのであろうか。罪悪と潔白とが悲惨の神秘な牢獄《ろうごく》において室《へや》を同じゅうすることもあるのか。人間の宿命と呼ばるる一連の囚徒のうちにおいて、二つの額が、一つは素朴であり、一つは獰猛《どうもう》であり、一つは曙の聖《きよ》い白色に浸り、一つは劫火《ごうか》の反映で永久に青ざめている、二つの額が、相並ぶこともあるのか。その説明し難い配合をだれが決定し得たのか。いかにして、いかなる奇跡によって、この天の少女と地獄の老人との間に共同の生活が立てられたのか。何者が子羊を狼《おおかみ》に結びつけ得たのか。そして更に不可解なことには、何者が狼を子羊に愛着させ得たのか。なぜならば、その狼は子羊を愛していたではないか、凶猛なる者がか弱い者を慕っていたではないか、また九カ年間、天使は怪物によりかかって身をささえていたではないか。コゼットの幼年および青年時代、世の中への顔出し、生命と光明との方への潔《きよ》い生育、それらは皆この不思議な献身によってまもられていたのである。ここに問題は、言わば数限りない謎《なぞ》に分かれ、深淵《しんえん》の下に更に深淵が開けてきて、マリユスはもはや眩暈《げんうん》を感ぜずにはジャン・ヴァルジャンの方をのぞき込むことができなかった。その深淵のごとき男はそもそも何者であったろうか。
 創世紀の古い比喩《ひゆ》は永久に真なるものである。現在のごとき人間の社会には、将来大なる光によって変化されない限り、常に二種の人間が存在する。一つは高きにある者であり、一つは地下にある者である。一つは善に従う者、すなわちアベルであり、一つは悪に従うもの、すなわちカインである。しかるに今、このやさしい心のカインは、そもそもいかなるものであったろうか。処女に対して、敬虔な心を傾けて愛し、彼女を監視し、彼女を育て、彼女をまもり、彼女を敬い、自ら不潔の身でありながら、純潔をもって彼女をおおい包むこの盗賊は、そもそもいかなるものであったろうか。無垢《むく》なる者を尊んで、それに一つの汚点をもつけさせなかったこの汚泥《おでい》は、そもそもいかなるものであったろうか。コゼットを教育したこのジャン
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