そうして私のまわりには喜びの光が満ち、私の魂の底だけが暗黒なばかりです。しかし人は幸福であるだけでは足りません。満足でなければいけません。そうして私はフォーシュルヴァン氏となっており、自分の本当の顔を隠し、あなたの晴れやかな心の前に私は謎《なぞ》をいだき、あなたの白日の輝きの中に私は影をいだき、何らの警告もせず善良な顔をしてあなたの家庭に徒刑場を引き入れ、もしあなたに知られたら追い払われるに違いないと考えながら、あなたと同じ食卓につき、もし召し使いたちに知られたら実に汚らわしいと言われるに違いないと思いながら、彼らから用をしてもらうことになるのです。当然あなたからきらわれるべき肱《ひじ》をあなたに接し、あなたの握手を騙《かた》り取ることになります。あなたの家では、尊い白髪と烙印《らくいん》をおされた白髪との両方に、尊敬を分かつことになります。最も親しい談話の折り、皆が互いに心の底まで打ち開いてると思ってる時に、あなたのお祖父様《じいさま》とあなた方ふたりと私と四人いっしょにいる時に、そこにはもひとり見知らぬ男がいることになります。私は自分の恐ろしい井戸の蓋《ふた》を開くまいということにばかり注意して、あなた方の生活のうちに立ち交わることになります。そうしてもはや葬られてる私が、生命のあるあなた方の邪魔にはいることになります。私は永久に彼女につきまとうことになります。あなたとコゼットと私と三人とも、緑色の帽子をかぶることになります。あなたはそれでも平然としておられますか。私は最も踏みにじられた人間にすぎません。そしてこんどは最も恐ろしい人間となるわけです。そして毎日罪悪を犯すこととなるでしょう。毎日|嘘《うそ》をつくこととなるでしょう。毎日暗夜の仮面をつけることとなるでしょう。毎日自分の汚辱をあなた方に分かつこととなるでしょう。毎日です、しかも私の愛するあなた方に、私の子供たるあなた方に、潔白なるあなた方にです。黙っているのが何でもないことでしょうか。沈黙を守っているのがわけもないことでしょうか。いえ、わけもないことではありません。沈黙が虚偽となることもあります。しかも私の虚偽、私の欺瞞《ぎまん》、私の汚辱、私の怯懦《きょうだ》、私の裏切り、私の罪悪、それを私は一滴一滴と飲み、また吐き出し、また飲み込み、夜中に終えてはまた昼に始め、そして私の朝の挨拶《あいさつ》も偽りとなり、晩の挨拶も偽りとなり、その虚偽の上に眠り、その虚偽をパンと共に食い、しかもコゼットと顔を合わせ、天使のほほえみに地獄の者のほほえみで答え、忌むべき瞞着者《まんちゃくしゃ》となるわけです。幸福になるにはどうしたらいいでしょうか。ああこの私が幸福になるには! そもそも私に幸福になる権利があるのでしょうか。私は人生の外にいる者です。」
 ジャン・ヴァルジャンは言葉を切った。マリユスは耳を傾けていた。かかる一連の思想と苦悶《くもん》との声は決して中断するものではない。ジャン・ヴァルジャンは再び声を低めたが、こんどはもう単に鈍い声ではなくて凄惨《せいさん》な声だった。
「なぜそんなことを言うのかとあなたは尋ねなさる。告発されても捜索されても追跡されてもいないではないかと、あなたは言われる。ところが事実私は告発されてるのです。捜索され、追跡されてるのです。だれからかと言えば、私自身からです。私の行く手をさえぎる者は私自身です。私は自分を引きつれ、自分を突き出し、自分を捕縛し、自分を処刑しています。人は自分自身を捕える時ほど、しかと捕えることはないものです。」
 そして彼は自分の上衣をぐっとつかんで、それをマリユスの方へ引っ張った。
「この拳《こぶし》をごらん下さい。」と彼は言い続けた。「この拳は襟《えり》をつかんでどうしても放さないようには見えませんか。ところでこれと同じも一つの拳があります。すなわち良心です。人は幸福でありたいと欲するならば、決して義務ということを了解してはいけません。なぜなら、一度義務を了解すると、義務はもう一歩も曲げないからです。あたかも了解したために罰を受けるがようにも見えます。しかし実はそうではありません。かえって報われるものです。なぜなら、義務は人を地獄の中につき入れますが、そこで人は自分のそばに神を感ずるからです。人は自分の内臓《はらわた》を引き裂くと、自分自身に対して心を安んじ得るものです。」
 そして更に痛切な音調で、彼は言い添えた。
「ポンメルシーさん、これは常識をはずれたことかも知れませんが、しかし私は正直な男です。私はあなたの目には低く堕《お》ちながら、自分の目には高く上るのです。前にも一度そういうことがありましたが、こんどほど苦しいものではありませんでした。何でもないことでした。そう、私はひとりの正直な男です。しかし私の誤ったや
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