心の中に私をつなぎ止めてる一筋の綱があります。ことに老年になるとその綱がますます丈夫になるものです。まわりの生活がすべてこわれかけてくるのに、その綱だけは頑固に残ります。もし私が、その綱を払いのけ、それを断ち切り、その結び目を解くか切り捨てるかして、遠くへ立ち去ることができてたら、私は救われたでしょう。ただ出立つするだけでよかったでしょう。ブーロア街に駅馬車もあります。そうすれば、あなたは幸福になり、私は行ってしまうだけです。で私はその綱を切ろうとつとめ、引きのけようとしたが、綱は丈夫で、中々切れるどころではなく、私の心をいっしょに引きもぎろうとするのです。その時私は、他の所へ行って生活することはできないと思いました。どうしても他へは行けません。で、なるほどあなたの言われるのは道理です、私はばかです。このまま黙ってここにいればいいわけです。あなたは私に室《へや》を一つ与えて下さるし、ポンメルシー夫人は私を愛して、あの人をいたわっておくれと安楽椅子《あんらくいす》に言って下さるし、あなたのお祖父《じい》様は私がここにいさえすればよろしいとおっしゃるし、私がそのお相手となり、皆いっしょに住みいっしょに食事をし、私はコゼット……いやごめん下さい、つい口癖になってるものですから、で私はポンメルシー夫人に腕を貸し、皆同じ屋根、同じ食卓、同じ火、冬には暖炉の同じ片すみに集まり、夏にはいっしょに散歩をする。実に喜ばしいことで、実に楽しいことで、それ以上のことはありません。そして一家族のように暮らしてゆく、一家族のように!」
 その言葉を発して、ジャン・ヴァルジャンはにわかに荒々しくなった。彼は両腕を組み、あたかもそこに深い穴でも掘ろうとしてるように足下の床《ゆか》をにらみつけ、声は急に激しくなった。
「一家族! いや。私には家族はない。私はあなたの家族のひとりではありません。およそ人間の家族にはいるべき者でありません。人が自分の家とする所では、どこへ行っても私はよけいな者となるのです。世にはたくさんの家庭があるが、私が加わり得る家庭はありません。私は不幸な者です。社会の外にほうり出されてる人間です。父母があったとさえも思えないくらいです。私があの娘さんを結婚さした日、私のすべては終わりました。彼女が幸福であること、愛する人といっしょにいること、親切な御老人がおらるること、ふたりの天使の家庭ができたこと、家中喜びに満ちてること、万事よくいってること、それを私は見て、自分で言いました、汝は入るべからずと、実際私は、嘘《うそ》をつくこともでき、あなた方皆を欺くこともでき、フォーシュルヴァン氏となってることもできました。そして彼女のためである間は嘘もつきました。しかし今は私のためである以上、嘘をついてはいけないのです。なるほど私がただ黙ってさえおれば、今のまま続いていったでしょう。あなたは、だれに強《し》いられて自白するのかと私にお尋ねなさる。それは下らないものです。私の良心です。けれども、黙っているのもまたたやすいことでした。私は一晩中、黙っていようといろいろ考えてみました。あなたは私にすべてを打ち明けてくれと言われる。実際私があなたに申したことは普通のことではないので、あなたがそう言われるのも無理はありません。ところで私は一晩中、いろいろ理屈を並べてみ、至当な理由を並べてみて、できるだけの努力はしました。しかしどうしても私の力に及ばないことが二つあったのです。私の心をここにつなぎとめ釘《くぎ》付けにしこびりつかせてる綱を断ち切ることと、ひとりでいる時私に低く話しかけるある者を黙らせることとです。それで私は今朝《けさ》あなたにすべてを自白しにきました。すべてを、もしくはほとんどすべてをです。私にだけ関係したことで言う必要のないものは、胸にしまって申しません。要点は既に御存じのとおりのことです。私は自分の秘密を取り上げて、あなたの所へ持ってきました。そしてあなたの目の前に底まで開いて見せました。これは容易な決心ではなかったのです。私は終夜苦しみました。私は自ら言ってみました。これはシャンマティユー事件とは違う、自分の名前を隠したとてだれに害を及ぼすものでもない、フォーシュルヴァンという名前はあることをしてやった礼としてフォーシュルヴァン自身からもらったものである、それを自分の名前としておいてさしつかえない、あなたからいただくあの室《へや》にはいったらどんなに幸福だろう、だれの邪魔にもなるまい、自分だけの片すみに引きこもっていよう、コゼットはあなたのものであるが、私は彼女と同じ家にいることを考えていようと。そうすれば各自相応な幸福を得られるわけです。続けてフォーシュルヴァンとなっておれば、すべてはよくなるわけです。もちろんただ私の魂を別にしてはです。
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