おぞましい宿命を、未来のうちに垣間《かいま》見た。
「すべてを言って下さい、すべてを言って下さい!」と彼は叫んだ。「あなたはコゼットの父ですね。」
 そして彼は言い難い恐怖に駆られて二、三歩後ろに退《さが》った。
 ジャン・ヴァルジャンは天井まで伸び上がるかと思われるようなおごそかな態度で頭を上げた。
「今あなたは私の言うことを信じて下さらなければいけません。そして、私のような者の誓言は法廷からは受け入れられませんけれども……。」
 そこで彼はちょっと口をつぐんだ。それから一種の崇厳陰惨な力をもって、ゆっくりと一語一語力を入れて言い添えた。
「……私の言葉を信じて下さい。コゼットの父は私ですと! 神に誓って否と言います。ポンメルシー男爵、私はファヴロールの田舎者《いなかもの》です。樹木の枝切りをして生活していた者です。名前もフォーシュルヴァンではなく、ジャン・ヴァルジャンと言います。コゼットとは何の縁故もありません。御安心下さい。」
 マリユスはつぶやいた。
「だれが証明してくれましょう……。」
「私がです。私がそう言う以上は。」
 マリユスは相手をながめた。相手は沈痛で落ち着いていた。そういう静平から偽りが出ようはずはなかった。氷のごとき冷ややかさは誠実なものである。その墳墓のごとき冷然さのうちには真実が感ぜられた。
「私はあなたの言葉を信じます。」とマリユスは言った。
 ジャン・ヴァルジャンは承認するように頭を下げ、そしてまた言い続けた。
「コゼットに対して私は何の関係がありましょう。ただ通りがかりの者にすぎません。十年前までは彼女が世にいることすらも知りませんでした。なるほど私が彼女を愛していたのは本当です。既に年を取ってからごく小さな娘を見ると、それを愛したくなるものです。年を取ってくると、どの子供に対しても祖父のような気になるものです。私のような者でも人並みの心をいくらか持ってるらしいです。コゼットは孤児でした。父も母もありませんでした。それでせめて私でもあった方がよかったのです。そういうわけで私は彼女を愛し始めました。子供という者はか弱いもので、偶然出会った私のような者でもその保護者となり得ます。私はコゼットに対して保護者の務めをしてきました。私はそれくらいのことを善《よ》い行ないだと言い得ようとは思いませんが、しかしもし善い行ないだとすれば、私がそれをしたことも考えてやって下さい。私の罪を多少なりと軽くするものとして考えていただきたいです。そして今日、コゼットは私の手もとを離れ、ふたりは行路を異にすることになりました。これから以後、私はもうコゼットに対しては何の関係もなくなります。彼女はポンメルシー夫人です。彼女の保護者が変わったわけです。そしてコゼットにはそれが仕合わせです。万事好都合です。六十万フランの金については、あなたは何とも言われませんが、私から先に申し上ぐれば、それは委託されたものです。その委託金がどうして私の手にはいったか、それは問う必要はありますまい。私はただそれを返すまでです。それ以上私は人に求めらるるところはないはずです。私は自分の本名を明かして本来の自分に返りました。それは私一個に関することです。ただ私は、私がどんな人間だかあなたに知っていただきたいのです。」
 そしてジャン・ヴァルジャンはマリユスの顔を正面からじっとながめた。
 マリユスが感じたことは、ただ雑然たる連絡もないことばかりだった。宿命のある種の風は人の魂のうちにそういう波を立たせるものである。
 自分のうちのすべてのものが分散してしまうような惑乱の瞬間を知らない者は、およそ世にあるまい。そういう時人は、いつも的はずれのことをでたらめに口にする。世には突然意外なことが現われてくることもあって、人はそれにたえ得ないで、強烈な酒を飲んだように酔わされてしまう。マリユスは新たに現われてきた自分の地位に惘然《ぼうぜん》としてしまって、ほとんど相手の自白を難ずるがような口のきき方をした。
「ですが、」と彼は叫んだ、「なぜあなたはそんなことを私に言うのです。だれに強《し》いられて言うのです。自分ひとりで秘密を守っておればいいではありませんか。あなたは告発されてもいず、捜索されてもいず、追跡されてもいないではありませんか。自ら好んでそんなことを打ち明けられるのには何か理由があるでしょう。言っておしまいなさい。何かあるでしょう。どういうつもりで自白をなさるのです。どういう動機で?」
「どういう動機?」とジャン・ヴァルジャンは、マリユスに話しかけるというよりもむしろ自分自身に話しかけるような低い鈍い声で答えた。「なるほど、この囚徒が私は囚徒ですと言ったのは、どういう動機からかと、そうです、妙な動機でです。それは正直からです。不幸なことですが、私の
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