り方のために、もしあなたがなお続けて私を重んずるようなことになれば、私はもう正直ではなくなります。ところが今あなたは私を賤《いや》しんでいられるから、私は正直な男と言えるのです。私は一つの宿命を担《にな》っていまして、人の尊敬はただ盗んでしか得られないのですが、そういう尊敬はかえって私をはずかしめ私の内心を苦しめます。そして自ら自分を尊敬するには、人から賤しまれなければいけないのです。その時私は始めてまっすぐに立てます。私は自分の良心に服従してる一徒刑囚です。他に類もないことだとは自分でも知っています。しかしどうしたらいいのでしょう。それが事実です。私は自分自身に対して約束をしています。それを守るだけです。生涯のうちには身を縛られるようなことに出会いもすれば、義務のうちに引きずり込まれるような機会に会うこともあります。おわかりでしょう、ポンメルシーさん、私の生涯にはいろいろなことが起こったのです。」
ジャン・ヴァルジャンはまた言葉を切りながら、自分の言葉の後口がいかにも苦《にが》いかのようにようやく唾《つば》をのみ込んで、また続けた。
「そういう嫌悪《けんお》すべきものを身に担っている場合、人はそれをひそかに他人へ分かち与えてはいけません、自分の疫病を他人に伝染さしてはいけません、気づかれないようにして他人を自分の深みへ引きずり込んではいけません、他人にまでも自分の赤い着物をまとわせてはいけません、狡猾《こうかつ》なやり方をして自分のみじめさで他人の幸福を妨げてはいけません。聖《きよ》い人々に近寄って、目に見えない自分の膿《うみ》をひそかに他人になすること、それは忌むべきことです。フォーシュルヴァンは私にその名前を貸してくれはしましたが、私にはそれを用うる権利はありません。彼は私にその名前を与えることもできましたが、私はそれを取ることができませんでした。一つの名前はすなわち一つの自己です。ところで私はひとりの田舎者にすぎませんが、このとおり少しは考えもし、少しは書物も読みました。そして物事のわきまえもあります。このとおり相当に自分の意見も表白できます。私は自分で自分を教育しました。そう確かに、他人の名前を盗み取ってその下に身を置くのは、不正直なことです。アルファベットの文字は、金入れや時計のように騙《かた》り取ることもできます。しかし、肉と骨とをそなえた偽りの名前となり、生きた偽りの鍵《かぎ》となり、錠前をこじあけて正直な人の家にはいり込み、決してまっすぐに物を見ず、いつも偸《ぬす》み見ばかりをし、自分の内部に汚辱をいだいていることは、どうして、どうして、どうして! それよりもむしろ、苦しみもだえ、血をしぼり、涙を流し、爪《つめ》で肉体をかきむしり、悩みにもだえて夜を過ごし、自分の心身を自ら食いつくす方が、よほどまさっています。そういうわけで、私はすべてをあなたに話しに参ったのです。おっしゃるとおり自ら好んでです。」
彼は苦しい息をついて、最後の言葉を投げつけた。
「昔私は生きるために、一片のパンを盗みました。そして今日私は、生きるために一つの名前を盗みたくはありません。」
「生きるため!」とマリユスは言葉をはさんだ。「生きるためにその名前があなたに必要なわけはないでしょう。」
「ああ、あなたの言われる意味はよくわかります。」とジャン・ヴァルジャンは答えながら、幾度も続けて頭をゆるく上げ下げした。
それから沈黙が落ちてきた。ふたりとも黙り込んで、深く考えの淵《ふち》に沈んでしまった。マリユスはテーブルのそばにすわり、折り曲げた指の一本の上に口の角をもたせていた。ジャン・ヴァルジャンは歩き回っていた。そして彼は鏡の前に立ち止まり、そこにじっとたたずんだ。それから、映ってる自分の姿も目に入れないで鏡の面をながめながら、あたかも内心の推理に答えるかのように言った。
「でも、これで私は気が安らいだ!」
彼はまた歩き出して、室《へや》の先端まで行った。そして向き返ろうとした時、マリユスが自分の歩いてるのをながめているのに気づいた。その時彼は、名状し難い調子でマリユスに言った。
「私の足は少し引きずり加減になっています。その理由ももうおわかりでしょう。」
それから彼はマリユスの方へすっかり向き直った。
「ところで、まあ仮りにこうなったとしたらどうでしょう、私が何にも言わず、フォーシュルヴァン氏となっており、あなたの家にはいり込み、あなたの家庭のひとりとなり、自分の室をもらい、毎朝楽しく食事をし、晩は三人で芝居に行き、私はテュイルリーの園やロアイヤル広場にポンメルシー夫人の伴をし、皆いっしょに暮らし、私も人並みの人間と思われているとします。しかるにある日、私もそこにおり、あなた方もそこにおられ、いっしょに話をし笑い合っている時に、
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